2014年9月2日~9月4日の3日間にわたってパシフィコ横浜にて開催されたゲーム開発者向けカンファレンス「CEDEC 2014」。本稿では、会期初日に行われた作家・冲方丁氏による基調講演「物語の力」の講演模様をお届けする。
「CEDEC 2014」会期初日に行われた基調講演では、ゲーム/小説の連動企画として描かれたライトノベル「カオスレギオン」、第24回日本SF大賞を受賞した小説「マルドゥック・スクランブル」、2媒体をまたにかけて連載された「シュピーゲル」シリーズに、映画化も成された「天地明察」など、そのほかアニメの脚本家としても著名な冲方丁(うぶかた とう)氏が、「物語」という枠組みに焦点を当て、冲方氏の考える、または教授されたという論理から、その構造や娯楽性の変遷が紐解かれていった。
一口に物語と言っても、本、映像、ゲームなどさまざまなカテゴライズに付随するそれを冲方氏はいかに捉えているのか。公演が始まる前から受講者が考えていただろう「どのような方向性の話か?」という疑問は、氏による「物語は人であると考えています」という切り口から、徐々に氷解されていくことに。
物語を形作る経験というもの
冲方氏は今回の「物語の力」という題目から、物語が何故求められ、人に何を与えるかという点について詳しく話を進めていった。人はそれぞれ、その人自身の物語となる「名前」を持っている。牛は1頭、鳥は1羽、人間は1名と、それらは死後に残る頭骨・羽などから取られた存在固有の由来を数え方としており(これは冲方氏の自論とのこと)、人はそれらの名前を通して、その人にしか経験できなかった、その人固有の経験を、物語として読み解いているという。「雪を知らない人」は、「雪」というものがどういうモノであるかを知らなくても、雪を知っている人の経験を通して、間接的に理解することができる。この理解へのプロセスが物語であり、あるいは物語の基礎である。
個人の経験とは、人間がさまざまな生活環境の中、学校・仕事・レジャーなど、自身の行動を選択していくことで、各々の人生を形作ることで形成されていく。それら個人の人生は、個々人の一日の動きを切り取るだけでも云わば“混沌(カオス)の塊”であり、物語の要素には成りえても、分かりやすく要因(5W1H)を順序が立てられたり、秩序化されない内は、私たちが観賞するような「小説」「映画」「ゲーム」には成りえない。ゆえに経験≠物語でないこと、これを読んでいる読者も、自身の1日を生活を「経験(朝から夜までの体験)」と「物語(人に話すために秩序化した話)」とに切り離してみれば、おそらく理解しやすいことだろう。そのため、経験を理解し、組み合わせ、共有(物語)化するために必要なのが、物語を作る技術になると氏は述べた。
1つ目の経験「直接的な経験」
冲方氏はここで、物語の根底に必要な経験を分類していくとし、まず1つ目に「直接的な経験」を挙げた。これを形作るのは人間に備わる6つの感覚であり、1~5つ目は視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚からなる五感、即ち「身体的な感覚」だ。何かを見て聞いて感じるのはその人固有の感覚であり、必ずしも傍に・遠くにいる他者と同じ感覚で受け取られるとは限らない。これらを通して語られるものは個人の体験談には成りえるものの、身体で受け取った感覚はそのままではタダの情報であり、物語にはならないという。
ならば、これらを物語たらしめる要素は何なのか。冲方氏は6つ目の感覚となる「時間間隔」を挙げた。物事には順番があり、長さ・短さ、瞬間的・持続的という時間に対する間隔の違いがある。時間間隔という点だけに着目すれば、「男の子と女の子が手を触れあう場面」では、一瞬触れただけなのか、ずっと手を繋ぎ合っていたのかで、まったく価値が違い、意味合いも変わってくる。「バラバラ殺人」であれば、死んだ後にバラバラにしたのか、生きているときにバラバラにしたのかで、罪や裁きも変わってくる。
これを1つずつ順序立て、秩序だてて語る術が「ディーテールズ(ディティール)」であるとし、五感と時間間隔から成る直接的な経験こそが、物語の柱になるとのことだ。
2つ目の経験「間接的な経験」
しかし、上記の経験だけで全てを語れるわけではない。冲方氏は2つ目の経験として「間接的な経験」を挙げた。これは「知ってはいるけど、自身で証明したこともない、そういうモノとして知っている」という類のものだ。地球には数十億人が存在するらしいが、実際に見たことはない。大昔は恐竜が生きていたようだが、実際は知らない。携帯電話で遠くにいる相手と話ができるが、その構造は分からない。これらは伝聞などにして見て聞いたものを、あたかも知っているかのように覚えた経験であり、それらを共有する術こそが言語能力なのだ。
人間はこのような間接的な経験を往々にして身に付けており、大半の人々が大きな情報を集合・共有化しながら社会で生活している。つまり、“そういうモノである”と捉えられるからこそ、SFやファンタジーといった舞台装置も理解、疑問、納得を通しながら、そういうモノとして把握し、読み解けるのだろう。なお、注意点として氏は「作品内のキャラクターの台詞・心情が何だかオカシイ時は、直接的な経験(作者の心情)と間接的な経験(他者として書くべき心情)がごっちゃになっている」と指摘していた。
3つ目の経験「神話的な経験」
次いで冲方氏は、間接的な経験からさらに広義な所にあるのが「神話的な経験」だと語り、それは“人知を超えていることを知っている”という経験であることを氏は示した。地球が何でできているのか分からない、太陽系の成り立ちも科学的側面でいえば何となくは分かっているけれども、その説に則ってもう一度作ることは、現代の物理や理論では出来はしないという、できないことが分かっている経験だ。
4つ目の経験「人工的な経験」
4つ目は、想像された経験にあたる「人工的な経験」。スキーをやったことがないけど、どういうものかは何となく分かる。ホラー映画を見る時、架空のものだと分かっている筈なのに恐怖する。人が複数の経験を組み合わせて作り上げたのがこの人工的な経験であり、これこそが大半の創作物に寄与されている「リアリティ」というものである。
人はそれぞれ目の前に現実が在るのに、現実的な、現実っぽいものというカテゴリを頭の中に作り、リアリティを追求している。物語の在り方とは、「直接的・間接的・神話的な経験を組み合わせて、効果的に人工的な経験を駆使し、特定の感情を喚起させる」ものだと冲方氏は述べた。
過去、最も「ゲームと小説が密接になったジャンル」
続いて、冲方氏はこれらの経験を扱い、物語を作る上でもう一つ大事なものは何かを話す上で、過去最も「ゲームと小説が密接となったジャンル」の説明を行った。受講者たちもこれを見ている読者たちも、思い思いに頭の中で多彩なコンテンツを挙げただろうが、氏はそれを「TRPG(テーブル・トーク・ロールプレイング・ゲーム)」とした。
テーブルトークは「座談」を指し、古来より行われてきた「火を囲んで、限りある食料を分け合わなければいけない」という、世界中の人々が持つ生活様式である。そこでテーブルという家具が生み出され、人々が一ヶ所に集まるようになったことで、座談自体が娯楽化していき、「すごろく」「カルタ」「謎かけ」など、さまざまな遊戯が生み出されてきた。
一方でロールプレイとは「役・役割を演じる」ことであり、元々は職業訓練の場や古来の宗教儀礼、軍隊の「敵を討つ」という役割などを指している。ただし、冲方氏は注意点として、しばしば現代でも比較に出されるロールプレイと演劇(アクト)との違いを指摘した。アクトはあくまで芝居で観客を楽しませることに注力されるが、ロールプレイは自分自身の娯楽のために演じられるのだ。そのため、対象がまったく違うことから、これらは一概に比較すべきではないとしている。
そして、完全な娯楽であった「テーブルトーク」と本来職業訓練とされていた「ロールプレイ」とが何故か合体し、生み出された「TRPG」については、さまざまな典拠があったそうだが、ここでは物凄い短期間で複雑なルールが作り出され、娯楽として一気に発展していったことに冲方氏は着目していた。
TRPGの構成を形作る3つの要素として、氏は筋書きを用意する「ゲームマスター(GM)」、ゲームそのものを判定・内包する「ルール」、プレイヤーの決断や行動に変数を与えて左右する「ダイス(サイコロ)」があり、この3つの内で最も人にリアリティを与えるものが「ダイス」だとした。それは、筋書きやルールがあくまで間接的な経験であるのに対し、ダイスは本人がその場に参加し、左右するという、その人固有の経験を与える要素となるからだ。
冲方氏は経験は全てカオスであると前述したことに加え、ここで経験とは何故カオスなのかという自問に、「全ての物事が偶然の出来事である」と述べた。人間は常に未知を経験しながら進むため、「次にどうなるか分からない」というのが、自身の正しい在り方であると認識し、最もリアリティを感じるものであると語った。同時に、人間は偶然という事柄を大事にし、最も興味を覚えるということから、それらを秩序立てながら解明していく術を常に欲求として持ち続けている。変化することに関心を寄せる人間というのは、自身の未来を森羅万象見通せてしまうと、自身の生きる希望や欲求を失ってしまう精神構造を備えているのだろう。
偶然と必然の因果関係
人間は自身の人生の攻略法を思索し続け、偶然を必然に変えるという「因果関係」を解明してきたという。ある物事が別の物事に変わる時、これが一定であるという発見こそが物語作りなのだと。ここで、ゲームのリアリティは偶然であり、物語のリアリティは必然であるとし、人間が如何にして必然を作り上げてきたのかを冲方氏は述べた。
まず、宗教面で云えば「立法」の誕生だ。罪を犯せば罰が与えられるという強固な物語を設定したことにより、自然界を見渡せばまったくとして必然ではないものの、法律を破れば罪を被る、そういったルールを社会に生きる人間は必然として捉えている。それが科学であれば、仮説という物語を打ち立て、それが偶然に対抗しうるかを常に試み、「こうすれば、こうなる」という確実性を構築し、必然を創り上げる。政治であっても芸術であっても、それらを包括するありとあらゆる事象において、人間は必然を創り上げてきた。この「偶然から必然を作り出す作業」こそが、人工的な経験を創り上げることの最大の目的になるという。
ゲームにおいて発明された偶然性のリアリティと、物語における必然性のリアリティの整合性は物語作り、ひいては物事の表裏となりうる。ゆえに、偶然を自身の手で必然に変える「TRPG」というジャンルにおいて、偶然→必然→偶然…というサイクルを体験することが人間に生きる実感を与える、ひいてはゲームをプレイしているという実感を与えているとした。
必然を目的とした物語作りの変遷
続いて冲方氏は、「大体二万年くらいの尺」で必然を目的とした物語作りの変遷について分類していった。なお、氏もこれらは要因だけを抜いた大雑把な分類と称しており、その際に興味深い点を突かれてしまった人は、それぞれ10年位かけて学んでみてはと喋り、場を和ませる場面も。
1つ目の物語「神話」
偶々生まれ落ちた世界。ある日暑くなって動物が活動し始める。ある日寒くなって動物が休眠する。あらゆるものが偶然に発生し続ける中で、「季節のサイクル」「生と死の循環」「自然界の摂理」など、必然を創り上げていったのが「神話」である。何故この必然が作られたのか、神々の物語となったのかについては、よく分かっていないとのこと。しかし、人間はそれらの不透明な必然を積み重ねていくことで、次の時代を生んできた。即ち、経験の共有が成されたのだ。
2つ目の物語「宗教的な物語」
神話を通し、経験が共有化されたことから、さらに制動化された物語として作り出されたのが「宗教的な物語」だ。神話との違いは、宗教的な背景を元に、人々のコミュニティの維持を目的としたルールや罰を設定した(モーゼの十戒など)、コミュニティ毎の物語という特徴がある。
3つ目の物語「王権的な物語」
続いては宗教的な背景とは別に、武力的な思想、いわゆる権力者のための物語となる「王権的な物語」だ。フランス王朝における王権神授説のように、一部の権力者に権威を集めるために生み出され、設定された物語だ。これは神話的・宗教的な物語をさらに強固に共有し、経験したからこそ、「神が与えた権威」というルールをより強固に作り上げられたのだという。日本でいえば自らを「東照大権現」とし、家康は神であるから神なのだ、と流布した徳川家康がこれにあたる。
なお、王権的な物語には他の物語との大きな違いとして、「ほかのコミュニティを飲み込んでいく」という側面がある。宗教的な物語は他のコミュニティと対立してしまうが、王権的な物語は国や人々を物理的にも思想的にも飲み込み、染めてしまうということなのだろう。
4つ目の物語「民話・寓話的な物語」
ここで赴きが変わる。神話・宗教・王権が精密化し、拡大を続けていく一方で生まれたのが、この「民話・寓話的な物語」だ。グリム童話や座敷童のように、人が生きていく上でどの様な意義を果たすのかも分からない、そういった物語の成り立ちを有しているものだ。これらは現在にあっても、そもそもどこが原典で、どこで産み落とされたのかも分からない。有名どころでいえば「シンデレラ」だろう。さまざまな国で、同じような話の流れで語られていたのに、その原点は解明されていない。
なお、グリム童話における「シンデレラ」というのは、グリム兄弟が各地で収集した物語であるため、彼らは作者ではないのだ。このように、話型という共通項を持ちながら流布していた物語については、アールネ・トンプソンのタイプ・インデックス(AT分類)が明るいところだ。閑話休題。
また、民話・寓話に備わる一つの事実として、主人公・登場人物の殆どが一般であることが示唆された。これにより宗教・王権の権威ではなく、一般の人々であっても物語を作り上げることができた、という事実が明らかとなる。一部は王様が出てきたり、お姫様が出てきたりするものの、決して貴族階級だけを抽出したものでないことに気付くと、思わずハッとした説であった。
5つ目の物語「大衆娯楽の物語」
民話や寓話とは違い、時の権力者が大衆を喜ばせるために作った物語、それが「大衆娯楽の物語」だ。楽しいことを提供できない王権は滅んでいくということを必然とした権力者は、宮廷を大きくしたり、華やかな宴を催す中で、大衆が望んだ娯楽を提供し、滅ぶことを拒否したのだという。
日本でいえば「源氏物語」などをはじめとする宮廷文学がこれに当たる。武力を第1とせず、文化の力を政治・外交の力とし、宮廷文化の流布を目的としながら、人々に娯楽として供給していく。古来のイタリアではこのことを「柔らかい城壁」と称し、文化の発達した国は攻めにくいという、群集(軍隊)心理をもたらしていたという。これは王者が群衆をもてなすという「エンターテイメント」の図式だ。
6つ目の物語「個の物語」
文明・文化の発達に際し、12世紀から16世紀にかけて個人の精神が発見され、そして形成されていった。その中で権力の腐敗に対抗したり、王権の圧政に対抗する流れの中、西欧にて吟遊詩人が登場することとなった。彼らが謳ったのは「恋愛」と「騎士道」、それが「個の物語」である。恋愛ではコミュニティが強要した結婚(家と家との結合)に対し、個人の恋愛、つまりドラマチックでロマンチックなものを謳った。また騎士道では、戦争や国家的な都合ではなく、その人特有の戦う理由を謳ったとされている。
吟遊詩人の歌う物語がこれまでの物語と最も違う点は、確固とした反権力の物語であったことだ。しかし、吟遊詩人たちの具体的な歌の記録については全く残されていない。それはヨーロッパの十字軍に殲滅され、記録も残されず、継承されていないことが原因とされている。
また、中国の「三国志演義」や「水滸伝」のように、明らかに権力が大衆をコントロールするために造ったものでない物語も存在する。これらはむしろ権力者を娯楽化し、茶化したり、悪者にして楽しむという形式で語られている。日本でも琵琶法師の「平家物語」のように、一見諸行無常の人生観を謳いながら、「歴史的にもう滅んでいるのだから、誰も文句は言えない」という盾を持ち、娯楽作りに勤しんでいたようだ。個の価値観を語るという点が、従来の形式との一番の差異なのだろう。
7つ目の物語「近世の物語」
いよいよ近づいてきた7つ目の「近世の物語」は、これまでとは全く性質の異なる物語として生み出されている。最大の違いとなるのは、誰からも命令されていない、難の義務も背負ってない、権力に追従したり、また対抗するといった意図もない、書いた理由が「面白かったから」「売れたから」という点にある。これが、現在で普遍的な価値観として捉えられる「エンターテイメント」の原型だと冲方氏は指摘した。
ここでは貨幣経済が発達したことにより、民衆が自身のニーズ(欲求・需要)を満たせるようになり、民衆同士が互いにニーズを満たし合う関係性が生まれている。民衆にとって重要なのは「その日の辛さ・苦しさを忘れること」や「明日の労働に耐えるための活力を養う」など、そういった日々の欲求だ。悲劇化した物語を通すことで、悲恋を感じたり、あるいは生きる希望を見出したりと、民衆は積極的に物語を生み出していったという。中国の水滸伝に対抗して作られたという日本の「八犬伝」も、要は書いたら売れたからまた書いたという裏側があったようだ。
つまり、「歌舞伎の演目」「実際の心中事件」「敵討ち」などを題材とし、より人が感動する、より人が共感する物語を作るという、権力・宗教のルールが介在しない(歴史上の大局的に)、あっても場当たりの対応でしかない、いわば民衆が主役となった時代の物語なのだ。江戸時代初期の「水戸黄門 漫遊記」なども、悪者をバッサバッサを切り倒していくことで、権力者からして何を以って取り締まってもいいのかも分からないという、要素もニーズも多様化し過ぎた、これまでのケースとは単純な比較が難しい物語といえるのだろう。
8つ目の物語「現代の物語」
最後となるのが、私たちの良く知る「現代の物語」だ。互いに然したる身分の違いもなく、互いに物語を共有し合うという関係性については、数百年遡ってもあまり変化が見受けられない。しかし、最も大きく違うのが「物語が広告化したこと」にあるとのこと。貨幣経済が成熟し、広告というものが一つの力を持ったことで、今風に言えば「拡散力を持ったモノが偉い」ことが価値となり、より広まり易い物語が歓迎されるようになったと冲方氏は述べた。
王権でも宗教でも個人でもなく、いってみれば「企業の物語」になったとも称せる現代では、一例として「おもちゃを売るために、アニメのシリーズを作る」という方法や、「物語をシリーズ化していく」際に“シリーズ最高傑作”などのキャッチコピーを付けることで、作品が作品の広告と化していくなど、過去千年間において散見されなかった手法だとした。
しかし、この現代の物語が生まれてからまだ100年~200年と経っていないため、これが良いことなのか、悪いことなのかは、現状で判断することはできない。現代社会がそのように成り立っているから、従って物語もそう成り立っているのだとしか、氏にも言えないとのこと。ただし、少なくともある日突然王権から抹殺されることもなければ、宗教的なタブーに引っかかることも…無きにしも非ずだが、概ね引っかからない。かつてなく自由に隔てなく物語が作られているのが、私たちの生きる現代なのだ。
ここでは独自の宗教観や政治観を訴えてもいいし、民衆を楽しませることに特化してもいい。ロールプレイに立ち返り「自分を楽しませる」ことを目的として制作してもいい。そして、現代において、物語化が必要になる偶然性というものを娯楽として成り立たせながら、同時に必然性という物語作りを導入している媒体は、現代において「ゲーム」しか存在しないという。
冲方氏は最後に「もしかすると、ゲームは今後の数百年後の人類の新しい物語を作っていくかもしれない。その力を是非、正しく発揮し、この世に送り出す。『ゲームが次の時代を作った』という物語(作品)が作られることを念願しております」と語り、喝采の中で基調講演を締めくくった。
公演後の質疑応答の一部を紹介
――ゲームのストーリテリングは現状活字が主体ですが、インディーズ方面では視覚にのみ訴えかける手法がジワジワと取り入れられています(「風ノ旅ビト」「LIMBO」など)。こういったゲームについてはどうお考えですか?
冲方:小説にも台詞が全くないものが有ったり、心情描写が全くないものもあります。個人的に好きなゲームで例えれば「ICO」。映画で例えれば「2001年 宇宙の旅」です。セリフがなく、ストーリー上の説明も一切省かれているものですね。実は、ああいう抽象的な物語というのは複数の多義的な意味を、つまりビジュアルを重視することで意味を剥ぎ取っているのではなく、常に意味を包括しているんです。一つの記号が常に複数の意味合いを持っている状態を保持し続ける。これは言葉そのものを作っているのに等しいのです。そのためクリエイターはビジュアルを作っているけれども、機能として考えた場合、これは動く文字を作っているに等しい行為といえます。これが完全となれば人間は言語(文字)なんていらないんです。道路標識のように、図だけで意味が伝わるように作ってあるものも、言葉ではないけれど、記号として捉えれば実は同じものなので。結論としては、個人的に「好きです」としか言いようがないですね(笑)
――(小説家になるにあたって)19歳の頃は何をやっていましたか?
冲方:単純に修行としては、「コレだ」と思った作品を10回くらい書き写していました。スティーヴン・キングとかは死ぬかと思いました(笑)。やはり言葉を自分に染み込ませることです。基本的にあらゆる芸術は模写することが大事です。「ロールプレイ」と同じで、職業訓練のように自身が演じていって、自身の形を見つけていく。つまり、新しい技術を身に付けていくことに繋がります。19歳の頃は関係者さんと知り合いになったことで「これくらいの事ができます」と、自分の技術力を披露し、お仕事をもらいました。昔はそういった技術力を身に付けることに注力していましたね。
――何故、小説家からゲームシナリオに携わることになったのですか?
冲方:完全に小説家としてデビューしたのですが、お金がないのでゲーム業界で働いていました(笑)。やはり給料がもらえますからね。ただ、小説書く時間もなくなるほど働かされたので、まとまったお金を作った後、しばらくお暇させていただきました。
――小説とゲームシナリオの大きな違いはありますか?
冲方:そうですね、基本的には活字媒体なので同じといえるのですが、ゲームは画面構成において活字の表示領域が限られているので、断片的な事柄をドンドン伝えていく、または「繰り返したり」「巻き戻りたり」を短いスパンでポンポン出していく、演劇的な方向性として捉えていました。正直な所、何もかも違うと考えてはいますが、最大の違いは「時間間隔」ですね。ゲームのセリフや映画の字幕など、1文字に対する集中力が非常に短くあることを要求されます。小説の場合はロングスパンで物語を見るので、言葉に対する時間間隔が全く違うので、言葉も全く違うものとなる。本当に知りたければ、両方書いてみれば、きっと分かります。