一般社団法人コンピュータエンターテインメント協会とCEDEC運営委員会が開催した「CEDEC 2015」。ここでは会期3日目のセッション「ゲームにおける既視感で、どうユーザーの気持ちを掴むか?」をレポートしていく。

目次
  1. 既視感は悪なのか?
  2. コンテンツにおける既視感
  3. 3人の講師によるトークセッション

「CEDEC 2015」会期3日目に行われたセッション「ゲームにおける既視感で、どうユーザーの気持ちを掴むか?」では、「ゲームにおける既視感とは何か」「既視感は悪なのか」「既視感の活用」をテーマに、3人の講師がそれぞれの考えを述べていった。

左から遠藤雅伸氏、馬場保仁氏、簗瀬洋平氏

既視感は悪なのか?

まずはディー・エヌ・エー Japan リージョンゲーム 事業本部プロデューサー・馬場保仁氏が登壇し、ゲームと「既視感」の関係性が語られた。

既視感とは、未体験の事柄であるはずが、過去にどこかで体験したことがあるかのような感覚を覚えること。時にデジャブとも呼ばれる現象だ。

そしてゲームにおける既視感とは「どこかでみたことある場面」「あの映画のシーンみたい」「■■みたいなゲームじゃん」「昔こういうのやってたなー」などなど、誰しもが口に出したことがありそうな言葉の群である。

この既視感を項目ごとに紐解いていくと、キャラクターのモチーフ、ゲームのルール、世界観やUIなど、さまざまに分別されていく。しかし、だからといって既視感をすべて排除してしまうのは一種の冒険であると馬場氏は語る。

既視感がなければ、未知を求めるユーザー層でもない限り、大多数はその作品に対しての取っ掛かりを見つけられない。結果、そもそもプレイをする機会を与えられなくなってしまう。そのため、既視感自体を善悪とだけ捉えず、それぞれの項目と良い塩梅で混ぜ合わせ、「親しみのあるシステム・デザイン」と考えてもらえるよう、落とし込む方が必要となる。

下記の図であれば、6項目全てを既視感でまとめると、いわゆるパクリやオマージュという域に達してしまうが、モチーフ/UI等デザイン/世界観くらいで済ませると、外側だけを変えた「ガワガエ」と捉えられやすいという。

そこで、残されたルール、遊び、操作性にオリジナリティを注ぎ込み、ゲーム性を尖らせることで、作品の独自の魅力が生まれると馬場氏は述べた。

これについては、馬場氏が携わったiOS/Android「ガブ×2 アドベンチャー」と「マジック&カノン」を例にして説明されることに。まず「ガブ×2 アドベンチャー」は、放置ゲーム+SNS風メッセージなど、新しい要素をつぎ込んだタイトルであるが、サービス当初から数字の面では伸び悩んでいるとのこと。これは、「どう遊べばいいのか」のユーザーのリテラシーが育まれる前に、そもそもゲーム内容を想起させないことがユーザー数の増加に繋がっていないという。

続く「マジック&カノン」は、3Dフィールドを歩き回れるRPGとして提供され、これまでにネットゲームなどをプレイしてきた層から「懐かしい」「親しみある」という意見をもらったタイトルだ。しかし、サービス当初に浮かび上がった問題点の一つに、「名前入力&アバター設定」の時点で大半のユーザーが離脱することが挙げられた。

これには基本無料のスマートフォンゲームの時勢があったとし、彼らは最初は体験版気分で遊ぶので、自身の好みの設定を反映するのは2~3日経ってから。つまり、ゲームを気に入ってからのことになる。この部分を改善したところ、ユーザーの離脱を防げるようになったとしている。

最後にまとめとして、既視感の使い方について語られた。既視感は必要だが、多すぎると陳腐で、少なすぎると難しそうになる。しかし、誰かのいう「分からない」の時こそチャンスにもなりえるので、結局のところ、どう活かしていくかの目的意識が肝要となりそうだ。

コンテンツにおける既視感

続いてはユニティ・テクノロジーズ・ジャパン クリエイティブ ストラテジスト・簗瀬洋平氏が登壇。ここでは脳科学的な側面で、既視感に関する講義が行われた。

まず簗瀬氏は、ゲームが認知される順番として、「伝聞」→「ビジュアル」→「インタラクション/体験」という流れがあるとした。

「伝聞」は実際にゲームを見る前の段階で、ユーザーがそのビジュアルと体験を想像する時間。続く「ビジュアル」はゲーム画面・動画を見たときの反応で、体験することを想像する時間。最後の「インタラクション/体験」は文字どおり、実際に体験した時間。ここまできて、そのゲームに対するユーザーの感想が生まれる。

つまり、ゲーム体験を「予測」し、ゲーム体験を「経験」した後、ユーザーが該当タイトルを「評価」した時点で、ゲームは認知されるということだ。内容の例を出すと、

「壮大な世界で、すごい種類のモンスターに出会える」→「3Dだと思ったら、2Dだった」
「爽快感のあるアクションが楽しそう」→「スプラッターなのは想定外だけど、楽しい」

個々人によって違いはあるものの、この期待と体験の幅(嗜好も含む)がゲームの評価につながっていく。そして、前提となるこの「期待」には、それぞれの過去のゲーム体験が密接につながっていると簗瀬氏は語った。

期待は過去のゲーム体験をもとにしたものだが、それが「どういう風に記憶されているのか」はさまざま。分かりやすく残るのは、感情を強く動かされた体験ということで、「あの場面で思わず泣いてしまった」「ラストのギリギリのバトルで奮えた」など、インパクトのあるものだ。

この記憶により、知らないタイトルをプレイした際、プレイヤーは過去の断片的な記憶と照らし合わせ、相対的な評価をタイトルにつける。言ってみれば単純な図式ではあるが、これを利用することで「似たような場面・展開をもつタイトルの演出に重なる要素を取り入れ、同様の感情を想起させる」ことが可能となる。この場の良し悪しについては、馬場氏の論で解決することだろう。

しかし、世の中にリリースされている古今東西の作品を見てみると、「過去の名作と同様の感情を想起させようとする作品」というのは、普遍的に扱われているといっても相違ないはずだ。この疑問に対して簗瀬氏は「記憶に残っている過去のコンテンツによって、新しいコンテンツの記憶が上書きされない」という問題点を挙げてくれた。

つまり、人間の記憶構造からのアプローチとしては、「各々の過去の体験である『何々』みたいなゲームを超えられない」ことから、新しい作品が過去の体験に勝てない事態を招いているという。これに関しては、新旧のさまざまなコンテンツに関わっているユーザーであれば、心覚えのある事柄であろう。

結論として、コンテンツの評価は期待と実際の違い(期待通り、想定外、斜め上など状況は多々)によるものだが、基本的には「自分が過去に体験した何かを想起させ、評価する」という構図があるらしい。ちなみに、何も想起できなかった作品というのは“まったく想像がつかない=評価のしようがない”ことから、「見る」「やる」まで評価が付けられない。

とはいっても“想像がつかない=ワクワク”ならまだしも、全然興味が湧いていない状態であれば、そもそもゲームをプレイする気にならないといえる。馬場氏の語るところ、新しいものばかりで構成されていて、取っ掛かりのない状態ということだ。

3人の講師によるトークセッション

最後は馬場氏、簗瀬氏に加え、東京工芸大学 芸術学部ゲーム学科 教授・遠藤雅伸氏が登壇し、受講者を交えてのパネルディスカッションが進められた。

最初に遠藤氏は、現在調査中の課題「ゲームを辞める理由」の一端を語ってくれた。既視感にまつわる「ゲームの新規性が嫌で止めてしまった人」という項目では、20代で26%、30代で33%、40代で36%と、年齢が上がるにつれて新しいゲームに手を出し辛くなっているとか。簗瀬氏もこれについて、「若い人は記憶の上書きがされやすいのですが、年齢が上がるにつれて上書きが困難になる」と補足していた。

さらに遠藤氏は「人生最高のゲームとは何か?」と題した調査で、真の目的「ゲームに思い出補正があるか」を調査したとのこと。調べた中では、小学校・中学校・高校初期くらいに遊んだゲームが人生最高のゲームに挙げる人が56%と、大きな比率を記録したとのことだ。実際、筆者も一番面白かったを問われたら、最新作よりも過去作を挙げていそうだ。

また、この調査を進めていく上での特異的な数字として、女性たちの中で20代前半に遊んだゲームが人生最高だと挙げる率が高かったとか。この数字が紐解れると、半数にもわたる女性が「ゲームの設定」に注目していることが分かった。この傾向は世界観やキャラクターを深堀するアニメに近似しているとのことで、キャラクターコンテンツという側面に限れば、ゲームの思い出補正をぶち破れる可能性を秘めているんだとか。

そのほか、日本と海外のゲームに関する愛着や国民性、海外の人が「VRで現実に2次元を降ろす」とすれば、日本人は「VRで2次元に行く」としているなど、興味深い話題が数多く広がっていた。

受講者からの質問に、講師が回答

「日本であっても世界であっても既視感が通用しやすいゲーム?」という会場からの質問には、古き良き日本の名作ゲームが世界でスタンダードを築いていたことから妥当であるという答えから、昨今のスマートフォンゲームに関わる話に発展。

近年、スマートフォンでゲームを初めてプレイした人というのは、これまでゲームをプレイしてきた人たちとは違い、今回の議題でもある既視感も覚えず、上書きするほどの年差も蓄えていないことがある。それを踏まえると、「スーパーマリオ」などの直観的に遊べるゲームというのは、こういった層に対しても訴求力が高いという。

続いて「動画・SNSを通じてゲームを体験する事情」についての質問。これに関して簗瀬氏は、実況ゲーム配信でゲームを体験することと、自身でゲームを体験することは完全に分けるべきだと主張。個人の体験を配信すること自体が「別のコンテンツ」になる、新しい形であると述べた。

これは、実況者毎にゲーム画面や展開が違うことから、その違いを「受け手として楽しむ」ものだと指摘した。しかし、同時にコアな調査が必要な課題であるともいう。古くからのゲーム世代と、インフラのあり様から生まれたゲーム世代と、昨今ではゲームのスタートライン自体が散り散りゆえに、一概には括れないものなのだろう。

そして最後に「SUMMER LESSONが出たら10万でも20万でも買います!」というゲームの神様らしい遠藤氏の意気込みと共に、本セッションは幕を閉じた。

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