中国ゲームメディアUCGによる連載企画。本誌で掲載されたコラムの翻訳版「Master Love(麻辣)中国における二次元ゲームの“タンタロス神話”」最終回は、ユーザーたちの理想を体現した「スノウブレイク:禁域降臨」の登場とこれからについて触れていく。

今日のネット上には「スノウブレイク:禁域降臨」への賛辞が溢れ返っている。しかし、“エデン”とも呼ばれる「スノウブレイク:禁域降臨」は、本来なら生き残れなかった可能性のほうが高い。運営会社であるSeasun Gamesは二次元ゲーム分野で十分な経験を持っておらず、同時期に立ち上げた複数プロジェクトのうち一つは早々に頓挫した。サービス初期には、ゲーム内容の質やガチャ設計に対する不満も多かった。もしMaster Loveをめぐる複雑な争奪戦が存在しなかったなら、「スノウブレイク:禁域降臨」は静かにサービス終了していただろう。
だが認めざるを得ないのは、Seasun Gamesの運営は「交錯戦線 CROSS CORE(ダイブロス・コア)」や「シンギュラリティ×ラブストーリー」よりも、プレイヤーの“本当の欲求”の把握に長けていた点である。「交錯戦線」は男性向け市場に機会を見つけたものの、その手法は単純で粗かった。「シンギュラリティ×ラブストーリー」は核心を取り違え、制作側がわざわざ動画で自分のネタの説明を始めた時点で、もはや求心力が失われていた。
一般的にユーザーの積極的な介入は世論をコントロール不能にし、炎上のブーメランが制作側へ返ってくる事態も珍しくない。これに対しSeasun Gamesの施策は次のように整理できる。Master Love的な情緒的価値はとにかく徹底的に満たす。一方、ガチャ収益に影響を与え得る要望には“時間稼ぎ”で対処する。たとえば“ピックアップがすり抜けにくい調整”など、局所的な課金の最適化は行うが、大きな課金要素(天井、累計チャージ等)では主に“プレイヤーの気持ち”を優先した。さらに運営はプレイヤーの過激な振る舞いを黙認し、時には支持すらした。ある運営スタッフはこう述べている。
「ここでムーブメントを起こしても構わない。私はいつでもあなたたちを支持する。」
MasterLoveの“物語的成功”はプレイヤーがその物語を“信じるかどうか”、率直に言うなら“自分で自分を騙す意思があるかどうか”に依存している。メタファーとして提示することも非常に簡単だ。しかし、私たちはポストモダンの洗礼を受けた時代に生きており、この種の物語が訴えようとする価値が“感動”ではなく“滑稽さ”や“陳腐さ”として受け取られ、容易にパロディ化されてしまう環境にある。
そして、ある芸術表現が模倣やパロディによって簡単に無効化されてしまうなら、人はその物語を信じることができず、感化されるどころか逆効果にすらなり得る。

ではなぜ、「スノウブレイク:禁域降臨」だけ、プレイヤーは制作の意図を受け取り、積極的に物語を“支え”、さらには“守る”という行動にまで至ったのだろうか。その理由のひとつは、従来のハーレム型二次元ゲームの常套句に、プレイヤー自身がすでに強い倦怠を覚えていた点にある。マンネリを破り、より純粋で極端なものを求め、最終的にはポリティカルな強度を持つ“新しい覇権的美学”を構築しようとしたのだ。
ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンが繰り返し論じたように、近代政治は美学化する。そして「スノウブレイク:禁域降臨」の爆発的反響は、まさに政治の美学的投影が二次元ゲームの領域で可視化された瞬間である。
もちろん、これはMasterLove愛好者が、政治的主張を表明するためにゲームを擁護しているという意味ではない。しかし美学的・文学的嗜好と政治的認識はしばしば密接に関連する。軍事や兵器を題材にしたゲームは、そのストーリーや設定を通して必然的に特定の価値観を流し込む。

「スノウブレイク:禁域降臨」における“愛してる(Love you)”というメッセージは、その美学の体現であり、プレイヤーはその美学に身を投じ、制作側の設計した文脈へと自発的に歩み寄ったのだ。
同じ構造は他のゲームにも見られる。「ドールズフロントライン」は兵器をキャラクター化したゆえに、特定の価値観を共有する層を集めた。また、miHoYoの「原神」「崩壊:スターレイル」はそれぞれ固有の世界観を持ち、その価値観を受け入れるコミュニティを形成している。
中国産コンテンツとグローバル化への期待
中国国内に根強い「文化輸出への強い期待と願望」も、これらタイトルの評価を後押しした。「三体」「流浪地球(The Wandering Earth)」「BLACK MYTH:悟空(黒神話:悟空)」、そして「原神」も中国のユーザーにとって“国産の誇り”の文脈で語られる。

これほど強烈な政治的美学が形成される背景には、人々が心の底で“過去への回帰”を望んでいるという事実がある。現代社会への不満、理想と現実の乖離、未来への不安。こうした心理を敏感に嗅ぎ取り、宣伝を行ってきた。これは“インセル”の抱える感情とも通底する。現代の潮流が男性のかつての優位を揺るがした。だからこそ「昔の秩序に戻りたい」と願っているのだ。
ゲームに潜む“教化”は、どこまで二次元ゲームのプレイヤーに受け入れられるのだろうか。現状を見る限り、想像力に基づく物語は、ある種の“信念”や“憧れ”になる。そして、これこそが非常に強力なプロパガンダとなる。二次元ゲームの開発者にとって理想的なプレイヤーとは、ストーリーの進行に合わせて感情を揺さぶられ、物語に没入し、最終的にはお気に入りのキャラクターのためにガチャへと課金する存在である。
とはいえ、ここで直視しなければならない現実がある。現在の二次元ゲームが採用する商業モデル、その強い社会性、そして極端な高額化は、プレイヤーの理性を奪ってしまう。ガチャは自然とプレイヤー格差を生み出し、上昇し続ける開発コストと終わりなき成長の中で、各社は値上げやピックアップ効率の低下を選択する。中国の二次元ゲームにおけるガチャの“吸金力”は、いよいよ「日本を追い越し韓国に追いつく」レベルへと突入している。中国の二次元市場を語る上で、これらの要因は避けて通れない。
二次元ゲームにおける文化衝突
「スノウブレイク:禁域降臨」のプレイヤーがSeasun Gamesの「愛してる」に心から喝采を送り、miHoYoのファンが「もっと多くの高品質なゲームを世界へ」と声を上げるのも、本心からである。彼らはミソジニストでも、強烈なナショナリズムに染まっているわけでもない。ただ、作品との“共鳴”を実感し、それを誇らしく思い、自分もその一部であると感じているのだ。
Master Love的な二次元ゲームは、ある種の男性インセル層による“布教の場”という役割も担っている。だからこそ「スノウブレイク:禁域降臨」は強く支持されたのだ。ハーレム的で、プレイヤーへ奉仕するゲームこそが“開発者に重視されるべきだ”と示し、同時に自らの保守的価値観の正統性を宣言するために。
こうした保守的価値観の復活は、中国や二次元界隈に限った現象ではない。さらに近年、LGBTQ+運動やキャンセル・カルチャー、ウォーク・カルチャーが芸術表現に一定の規制や方向付けをもたらしたことへの反発も、保守的感情を後押ししている。社会が理想に届かなかったのか、あるいは急進運動が過剰だったのか。理由はどうあれ、現代は“反発の時代”なのだ。
“被害者”であると主張する姿勢は、保守派・Master Love愛好者に共通している。保守派は「ウォーク文化がアメリカの言論空間を汚染した」と言い、一方、「有男不玩(男キャラがいれば遊ばない)」を掲げる中国プレイヤーは「すべて女性フェミニスト層が悪い」と主張する。
どちらも「自分たちは真実を語っているのに弾圧されている」と考える。保守派は「左派メディアは保守価値を悪魔化している」と言い、中国の“有男不玩”派は「WeiboやREDの女性フェミニストが男性プレイヤーを追い出そうとしている!」と嘆く。
しかし、“ウォーク文化”にせよ“性別対立”にせよ、それらは表層のテーマにすぎない。本当に社会の価値観を揺さぶり、衝突させている元凶──それは ソーシャルメディアそのものである。
アメリカではトランプ大統領のX(Twitter)での影響力が「議事堂襲撃事件」を引き起こした一因となり、中国ではWeibo・Douyin・REDでの“炎上商法”が日常化し、極端な言論が拡散されていく。
SNSの力によって、私たちは“言論過多の時代”へと完全に突入し、その膨大な言葉は武器として研ぎ澄まされ、インターネットの隅々にまで浸透していく。これほど複雑な言論空間に巻き込まれては、二次元ゲームはもちろん、その背後にいるすべてのクリエイターが極端な眼差しから逃れられないのも当然だ。
礼失求諸野(礼を失すれば野に求む)
では、このような環境の中で私たちはどうすべきなのか。筆者が注目したのは、一部の人々が“同人二次創作”の力に活路を見いだそうとしている点である。商業コンテンツの命運を同人が救う。これは一見すると理解し難い構図だ。商業作品と二次創作は、対立関係とまではいかずとも、優先順位や立場の差は存在する。二次創作が“逆輸入”される(公式が同人の影響を受ける)ケースは確かにあるが、それはあくまで少数派である。時には、運営が露骨な“引用”をし、同人作家が作った設定をそのままゲームに取り込むこともある。しかし、当の同人作家にとってそれは喜ぶべきか悲しむべきか、複雑な心境だろう──自分の才能が認められた喜びがある一方で、正当な対価や権利保護がない不安もある。場合によっては、何も知らない一部ファンから「逆に原作をパクった」と言われる可能性すらあるのだ。
とはいえ、愛好者たちが「同人作品が二次元ゲームの情緒的価値を代替できる」と語る時、その言葉が本心から来ていることも筆者は信じたい。同人クリエイターの一人は筆者にこう語った。
「ゲームの中でキャラ同士の関係がMaster Loveでも、ガールズラブでも関係ない。自分の手で、筆で、物語を好きな方向に広げていけばいい。」
だが、ここで疑問が生まれる。同人創作は本当に二次元ゲームの情緒的価値を完全に代替できるのだろうか? 同人があれば、愛好者は本当にあらゆる争いから距離を置けるのか? 異なる嗜好や価値観を持つプレイヤー同士でも衝突せず、“最大公約数の平和”を保てるのだろうか?
まず、私たちは同人創作が持つ固有の価値をしっかり認めるべきである。二次創作の盛り上がりは、作品そのものの価値を高めることが多い。全面的に開花した「東方Project」、同人文化が大きく育んだ「Fate/Grand Order」や「アイドルマスター」、そして創作者へのエンパワーメントを第一義としたVOCALOID──二次創作はこの世界に数えきれないほど多くの豊かな作品をもたらしてきた。
また、同人創作は消費者にとっても抵抗手段になりうる。ゲーム開発者が作り出したキャラクター、物語を素材に、創作者は“再生産”を行い、独自の作品を生み出す。商業価値は高くなくとも、それこそ同人が大切にする部分なのだ。同人はだれもが交流する文化であり、自由で平等な楽しみ方ができる。異なる嗜好や性癖を持つプレイヤーも、同じIPのもとで共存できるため、摩擦は相対的に少なくなる。
それでも同人がすべての問題を解決する“万能薬”とは言い切れない。同人は原作から完全に独立することはできず、多くの場合、原作の影響力の方が圧倒的に強い。愛好者の一部からは、「二次創作の主体性ばかり強調し、原作の消費を軽視するのは筋違いだ」という意見もある。
二次元ゲームは本質的に“商品”でもある。カナダの研究者ヴィンセント・モスコは「情報メディアの政治経済学」の中で、現代メディア環境ではコンテンツだけでなく“受け手”や“労働”までも商品化されると指摘した。二次元ゲームにもこの構造は当てはまる。代表的なのは、運営が優秀な同人作家を次々とスカウトし、“公式化”する例だ。こうなると、プレイヤーの中には「自分たちが自由に楽しめた文化を奪われた」と感じる人が出てくる。これはまだ高度な運営が取るアプローチで、中小企業は即物的なマーケティングを選びがちで、同人創作の価値はさらに軽視される。
もちろん、その理由は明白である。もし二次創作が盛り上がりすぎると公式の存在感がうすくなってしまう。家庭用ゲームの時代は作品のリプレイ性が限られていたため二次創作が盛んでも問題なかったが、継続運営が重要なソーシャルゲームではプレイヤーがログインせず同人創作にばかり没頭してしまうのは致命的だ。
一方で、同人作家自身も著作権リスクと“交流空間の公衆化”に苦しんでいる。著作権リスクは文字通りの問題で、中国本土では同人の権利保護に関する法整備が不十分である。日本や欧米における法的・文化的経験が参考になりつつあるとはいえ、中国本土はまだ“模索と学習の段階”にある。
プレイヤーの交流空間が“公共化”してしまう問題は、より微妙である。最近、ネット上では「公務員に合格した後、海外サイトで同人活動を続けてもいいのか」という動画が大きな注目を集めた。公務員に内定した“同人女子”が、自分は同人を続けるべきではないのでは、と不安を抱いていたのだ。これは、中国本土では“同人をやる”こと自体にも多くのタブーが存在し、自己検閲にまで追い込まれる状況を示している。
同人といえば、近年のAI技術の発展にも触れなければならない。2024年以降、生成AIは二次創作の環境に大きなインパクトを与え、AI補助による創作行為は激しい議論の的となっている。これはまた別の複雑な問題であるものの、筆者は「AIは“性”を究極の工業消費品に変えてしまう」と考えている。AI創作への批判として「作者性がない。そんなものは見る価値がない」という意見がよくある。だが、もし目的が“虚構による性的欲求の充足”であれば、作者性は必ずしも必要ではないだろう。今日ですら、好きなキャラの“えっちなイラスト”を見るためにAIを利用する者がいて、将来 “欲望を満たすためのAIゲーム”をプレイする人々が現れたとしても不思議ではない。そうなれば自分だけのゲームを手に入れられるようになる、かもしれない。
しかし問題は依然として残る。 “Master Love”のムーブメントがいずれ沈静化する可能性はあるが、二次元文化をめぐる議論や社会的波紋は決してなくならないのだ。
Master Loveがもたらしたものとは
2018年、「ウォール・ストリート・ジャーナル」はDaigoという名のゲームプレイヤーにインタビューを行った。Daigoが最も愛していたゲームは「Fate/Grand Order」で、当時の彼はすでに7万ドル以上を課金していた。その桁違いの金額は当然大きな話題を呼んだが、Daigo本人は「支払った金額に見合う価値がある」と語った。ゲームから大きな楽しみを得ただけでなく、キャラクターにも深い情感を抱いていたからだ。彼はこのゲームのことが心の底から大好きだったのである。
だが、Daigoは想像もしなかっただろう。自分が愛したゲームやキャラクターが、ある日“争いの火種”として使われるとは。その争いの過程で「Fate/Grand Order」がMaster Loveという概念の源流であることすら忘れられた。中国内の一部ゲームフォーラムでは、「Fate/Grand Order」はMaster Loveのカテゴリーから除外される始末である。
本質的に言えば、Master Love思潮は極度に保守的な価値観の表れであり、中国のゲームコミュニティ内ではこの傾向は珍しくない。誰しもが「自分の情緒的価値が軽視された」と主張できるが、その一方で彼ら自身の振る舞いこそが、二次元ゲームの健全な発展を蝕む元凶となっている。これこそが、中国における二次元ゲームの“タンタロス神話”である。
プレイヤーは二次元ゲームに「心から満たされる感情体験」を求めている。しかし、作品が長期運営型であることや、自身の価値観とのずれによって、その願いは容易には叶わないのである。また、「自分の好みを完全に満たす二次元ゲーム」にはなかなか巡り会えない。“気の合う仲間が集まる場所”を求めてコミュニティに参加しても、実際には常に緊張感の漂う議論に巻き込まれてしまう。主流の価値観から認められたい思いがある一方で、強い規範や権威的な文化に縛られることへの恐怖も存在する。そして、身を潜めようとしても、最終的には社会の視線や注目から逃れることはできないのである。
二次元ゲームが主流となった現在、インターネット上では様々な文化的衝突が発生している。人間の束縛、価値観の対立──これはコミュニティにおける永遠の課題である。しかし、“自分の領域で静かに楽しむ”“嫌なら見るな”といった古い処世術は、今や通用しない。問題から目を背け、耳を塞いでいては、問題は永遠に解決されず、むしろより深刻な禍根を未来に残すだけだ。
今こそ、二次元ゲームとそのプレイヤーは選択を迫られている。
──主流へと歩み寄るのか。
──少数派として生きる道を選ぶのか。
──あるいは、過去に留まったふりをするのか。
そこに“完全な正解”は存在しない。ただ、過激なプレイヤーたちと、そうした層に“歓迎の姿勢”を示して一攫千金を狙う投機的なゲームメーカーたちは、未だ霧深い、不確かな未来へと足を踏み出してしまったのである。
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