黒川文雄氏が主催する黒川塾の第99回として2025年2月20日に開催された「ありがとう吉P! 吉田修平 Night 30年のゲーム人生の振り返り」のレポートをお届け。
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音楽、映画、ゲーム、ITなどのエンタテインメント系コンテンツ業界を渡り歩いてきた黒川文雄氏が主催するオンラインサロン“黒川塾”。その第99回目は、元ソニー・インタラクティブエンタテインメント(SIE)の吉田修平氏をゲストに招いて、これまでの“ゲーム人生”を振り返るトークが行われた。

プレイステーションの歩みを30年に渡って支え続け、2025年1月14日にはSIEを離れ新たな道を進み始めた吉田氏。ゲーム業界を牽引し続けてきた氏の人生は、いつも“ゲーム愛”に満ちたものだった。本稿では当日語られた内容を、ある程度抜粋してお届けする。
ちなみに、イベント終了後に少し吉田氏とおはなしできたのでいくつか質問をしてみたのだが、「いまだから言えるSIE以外のメーカーの発明でとくに衝撃を受けたものは?」の質問には「スーパーマリオ64」と回答。また、吉田氏は大のインディーゲーム好きということで「最近のお気に入りのインディーゲーム」を尋ねてみると、「2024年にプレイしたナンバーワンとナンバーツー」として「九日ナインソール」と「未解決事件は終わらせないといけないから」を挙げてくださった。


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こうしたタイトルのチョイスからも、吉田氏がビジネスマンうんぬんは置いておいてまず“コアなゲーム好き”であり、いまなおゲームという媒体の可能性に魅入られ続けていることが同じゲームファンならばよくわかるのではないだろうか? そんな氏が自身の言葉で振り返った半生のレポートを、ぜひとも最後まで読んでみてほしい。
机に野球盤を掘って大目玉。少年時代から続く“遊び”への強い欲求がソニー入社の根源に
黒川氏から「なぜソニーに入ったのか?」と聞かれた吉田氏は、そこに繋がるかもしれないとして小学生時代のエピソードを語り始めた。まだ家庭用ゲーム機が普及していなかった時代、吉田少年は「紙と鉛筆で」ゲームを作り、友だちに遊ばせていたのだという。「学校にあった木製の机を掘ってパチンコ玉で遊ぶ野球盤を作り、校長先生に怒られた」という微笑ましい話も飛び出し、少年時代から“遊び”に対する強い欲求とクリエイティビティの片鱗を見せていたことがわかった。
月日は過ぎ、大学生になった吉田青年は、ふたつの理由により就職活動でソニーを志望。ひとつ目は“海外に住みたかった”ので、「ウォークマンなどの製品が世界中でヒットしているソニーならチャンスがあるんじゃないか」ということ。ふたつ目には、すでにゲーム大好き青年になっていた氏は「MSXなどを手掛けているソニーは、いつかゲーム機事業をやるんじゃないか」と予測したことを挙げた。将来的に吉田氏の望みはふたつとも叶うことになる。


無事ソニーに就職し、配属されたのは総合企画室の経営戦略部門。同期入社には現在セガの代表取締役を務めている内海州史氏が居たという。入社当時の吉田氏は、“ビデオカメラを一般の家庭に売り込みに行く”といった仕事もやっていたというから驚きだ。
当時、プレイステーションの生みの親である久夛良木健氏は、任天堂のスーパーファミコンにCD-ROMを読み込む互換機を開発中だった。吉田氏はそこに直接関わってはいなかったものの、同じ部署の担当者があまりゲームに詳しくなかったため、ゲーム好きとしていろいろと口を出していたのだという。部長だった徳中暉久氏がそれを覚えており、数年後に久夛良木氏と吉田氏を引き合わせてくれたのだった。
この任天堂とソニーの共同開発がご破産になったのは多くの人が知るところだろう。その後、久夛良木氏のプレイステーションに関する構想を初めて聞いた吉田氏は、その性能や価格帯から「この人は嘘つきだ」と思ったという。しかし徳中氏にこれを伝えると「俺は久夛良木を信じる」と返され、それならばとプロジェクトへの参加を決意。これが吉田氏にとって、その人生をゲーム産業に捧げる最初の一歩となった。任天堂とソニーの協業がご破産になった結果としてプレイステーションが大ヒットしたことを踏まえると、「ある意味では任天堂さんに助けてもらったと言えなくもない」と吉田氏は振り返る。


ちなみに、吉田氏いわく久夛良木氏は当時「偉い人をたらしこんで事業に投資させるのが上手い」ことから“ソニー3大悪人のひとり”に数えられていたという。黒川氏が「もうひとりは心当たりがあるかもしれない」と個人名を挙げると、吉田氏は「覚えてないです」とはぐらかした(ように見えた)。
当時遊んでいたゲームを聞かれた吉田氏は、仕事帰りにアーケードで「バーチャレーシング」などを楽しみつつ、家ではスーパーファミコン、メガドライブ、PCエンジンなど複数のゲーム機を所持しており、さまざまな対応ソフトを遊んでいたと回答。メガドライブの性能を拡張させる周辺機器・メガCD対応タイトルではゲームアーツの「シルフィード」が大好きだったと語った(その後、「さすがにスーパー32Xは買わなかった。あれはセガが狂っちゃったと思った」といった赤裸々な発言も)。
「クラッシュ・バンディクー」、「グランツーリスモ」、「サルゲッチュ」に次々関わった“超ラッキープロデューサー”
プレイステーションの事業を立ち上げるべく、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)が発足されたころ、ほかのメーカーからは「電気メーカーがゲーム機事業に参入してもみんな上手く行っていない。そんなに甘くないですよ」といった厳しい言葉も掛けられたという。「業界内の前評判はセガサターンのほうが高かったんじゃないか」と振り返る吉田氏。いまや世界的に見てもソニーを支えるビジネスであることを踏まえると、なんとも感慨深い話だ。ゲーム好きな吉田氏にとって「プレイステーションを成功させれば、ずっとゲームの仕事が続けられる」という想いが仕事へのモチベーションだった。

そうして1994年の年末に発売を迎えたプレイステーション(PS)とセガサターン(SS)。1年目はほぼ互角だったが、1995年の年末商戦はキラータイトルとしてPSにはコナミの「ときめきメモリアル」が、SSには「バーチャファイター2」があり、この時点では「バーチャ2」の勢いが凄まじく、SSが優勢と吉田氏は感じていたという。
しかし1996年1月、発売を迎える約1年前に放映されたスクウェアの「ファイナルファンタジーVII」のCMが業界やユーザーに大きな衝撃を与えた。これがPSでプレイできるということで、風向きは大きく変わっていく。3月の「バイオハザード」(カプコン)発売も追い風になった。「ファイナルファンタジーVII」がPSの売り上げを大きく牽引すると、エニックスも「ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち」をPS向けに発売することを決定。PSのキャッチコピーだった「全てのゲームは、ここに集まる」が、ハッタリではなくなっていった。

そんな1996年の春、吉田氏はSCEアメリカとユニバーサルインタラクティブスタジオの契約のもとプロジェクトが進行していた「クラッシュ・バンディクー」の日本向けのプロデューサーという仕事のオファーを受けることになる。ゲーム制作自体に関わるのは初めての経験で、吉田氏は奮起したようだ。ちなみに、吉田氏が指名されたのは英語が堪能だったことが要因として大きかったそうで、この英語スキルは大学生時代のオーストラリアへの半年間の留学によって培ったものだった。
あくまで「クラッシュ・バンディクー」はローカライズプロデューサーとしての仕事であり、そこに付きっ切りというほどの仕事量ではなかったので、あわせて「モータートゥーン・グランプリ2」の開発を終えようとしていた山内一典氏の新作にも関わることに。これが「グランツーリスモ」シリーズの1作目となる。最初に「クラッシュ」と「GT」という歴史的タイトルに関われたことを吉田氏は「超ラッキープロデューサーだった」と振り返る。
引き続きSCE内製タイトルとして「サルゲッチュ」や「レジェンド オブ ドラグーン」をプロデュース。そのころ関わったタイトルには「ICO」もあったが、上田文人氏らが理想とするパフォーマンスレベルが高く、プレイステーションでの発売は難しいと判断。2000年には活動拠点をアメリカに移すことが決まっていた吉田氏は、このタイトルを次世代機であるプレイステーション2(PS2)に移行する決定を下し、プロデュースは「みんなのゴルフ」などの小林康秀氏に引き継がれた。アメリカに移るまえに発売までプロデュースした最後のタイトルは、PS2のローンチタイトル「ファンタビジョン」となったそうだ。
PS3初期の状況は吉田氏をもってしても「本当にヤバい」、「もう終わった」と思った
吉田氏がアメリカに拠点を移したのは、当時SCEアメリカのトップだった平井一夫氏からの指名があったから。ローンチに携わって以降の吉田氏は、PS2の時代をまるまるアメリカで過ごしたことになる。2006年にプレイステーション3(PS3)が発売されて2年後の2008年には日本に戻り、SCEワールドワイド・スタジオでグローバル事業全体を統括することになった。

その後、SCEワールドワイド・スタジオのプレジデントになった経緯も解説。当時SCEは日本、アメリカ、ヨーロッパが別々のパブリッシャーのような状態だったが、ゲーム開発の規模が大きくなってきたことでこれを統合する必要があると久夛良木氏が判断。それぞれの地域からゲーム開発部門を分岐・統合したのがワールドワイド・スタジオだった。初代プレジデントにはSCEヨーロッパのフィル・ハリソン氏が就任。しかし、フィル氏は3年後にソニーを辞めてアタリの社長に就任してしまう。このとき一部から「制作部門を元の地域別の体制に戻してほしい」との抗議があったのだが、吉田氏は「グローバル規模でゲーム開発をする仕込みが進んでいる時期に以前の体制に戻されては困る」と考え、当時吉田氏のメンター的な存在だった佐藤明氏にこれを相談。アドバイスを受け、ワールドワイド・スタジオの必要性を説くためのパワーポイントを作成、プレゼンを行い、こうした動きを経てプレジデントへの就任が決まったという(このことを話したのは今回が初めてとのこと)。
そんなPS3を取り巻く発売から1~2年目の状況については、吉田氏をもってしても「本当にヤバい」、「もう終わった」と思ったという。それくらいソニーはPS3のCell構想にすさまじい額の投資を行っており、「ものすごい赤字」を叩き出していた。PS3の原価計算の結果を聞いた久夛良木氏が「この額は間違っている」と言って信じなかったくらい、PS3は大変にコストの掛かったハードだったのだそうだ。
PS3の苦境を象徴する光景として、吉田氏は当時アメリカで開催されたE3(1995年~2021年まで行われた世界最大のゲーム見本市)で、サードパーティのPS3向けタイトルがほとんどなかったことを挙げた。これにはPS3の前年に発売されたXbox 360とPS3とではアーキテクチャ(システムの論理的構造)がぜんぜん違ったため、まず360向けに開発したタイトルをあとからPS3に出そうにも移植難度が高かったことも要因だったのだろうと振り返る。
関連して吉田氏は、「PS3はすごい性能だ」と宣伝していたにも関わらず、ライフサイクル前半のサードパーティ製タイトルは360版のほうがグラフィックが良いものが多かったことにも触れた(筆者も当時「ベヨネッタ」や「レッド・デッド・リデンプション」の両ハード版を比較した動画などを見ていたので、そのことは実感していた)。なお、同じタイミングで家電としては「WEGA(ベガ)」の新モデルが大ヒット。ソニーグループ全体で見るとPS3の赤字を大きく補ってくれたとのことだった。

そんなPS3からプレイステーション4(PS4)に移行するころから、ソニーでは平井氏の指揮のもと「ゲームハードの機能はソフト開発といっしょに考える」体制を目指していた。ハードとソフトの開発者がそれぞれ関わり合うことで、よりいっそう「ソフトのための機能を備えたハード」にしていくための考え方であり、PS4とPS Vitaの仕様はこの影響が大きかったようだ。このころ吉田氏は「クラッシュ・バンディクー」や「ラチェット&クランク」に関わったゲームデザイナーであるマーク・サーニー氏をハード開発チームに引き合わせたりしていたという。マーク氏がPS4のプレゼンテーションを行ったのには、こうした背景があったのだ。
黒川氏はここまでの話を踏まえて吉田氏に「ご自身の人徳もあると思うんですが、出会いに恵まれていますよね?」とコメント。吉田氏はこれを肯定しつつ「自分でやらせてくださいと言ったことはほとんどないんです。なにかやっていると周囲からいろいろな話を持ちかけていただきました」とのこと。その上で「はじめて自分でやりたいと言ったのはワールドワイド・スタジオ存続のための行動」だったという。
インディーゲームは“PS1時代のワクワク”の再来? あのころのソニーイズムと“インディーゲームイニシアチブ”という役職
PS4の時代まで話題が進んだところで、黒川氏は改めてPS1時代のゲーム開発について「現在のインディーゲームをめぐる状況との類似性」に言及。これを受けて吉田氏は当時「新しいクリエイターがゲーム業界にどんどん入ってきた時代」で、それは従来の専用カートリッジと比較してコストが掛からないCD-ROMをプレイステーションとセガサターンが採用したことで、参入障壁が下がったのも要因のひとつだったと考えているようだ。
当時ゲーム作りに挑戦した新たな才能の一例として吉田氏は、ミュージシャンであり「パラッパラッパー」を手掛けた松浦雅也氏の名前を挙げた。吉田氏によると松浦氏は「僕が作っているものはゲームと呼んでいいんだろうか?」と葛藤していたとのことだが、結果的に「パラッパラッパー」は音楽ゲーム・リズムゲームの先駆的作品となり、その従来のゲームに囚われない発想が新たなゲームジャンルの勃興に繋がった。

こうした流れについて黒川氏が「ソニーミュージックは各地で新たな音楽の才能を発掘するようなことをしていたが、初期のSCEにはこうした考え方が引き継がれていたのか?」と質問すると、吉田氏はこれを肯定。また、「ソニーミュージックはアーティストが命」であり「ミュージシャンのファンになってもらう」という考え方の延長で、“ゲームクリエイターにスターになってもらう”べく取材などでも積極的に顔と名前を出してもらう方針が取られていたと話す。それより前のゲーム業界では他社からの引き抜きを防ぐため、クリエイターはイニシャルしか表に出させないような方針が多かったこともあり、こうした待遇は作り手側に広く歓迎されたということだった。
また、当時はまさにいまのインディーゲームのような少人数によるゲーム開発が主流で、「クラッシュ・バンディクー」も1作目の開発は8人くらいで行っていたという。さらに1年に1作くらいのスパンで新作も出せていたので、若手も「失敗してもいいからとにかく挑戦する」といった、経験を積みやすい環境ができていたと振り返る。いまなお挑戦的なゲームが登場し続けているインディーゲームを吉田氏が愛好しているのも、もしかしたらかつて経験したワクワクと繋がっているのかもしれない。

時は流れてSCEがSIEに名前を変えてから3年が経過した2019年。ジム・ライアン氏がそのトップに就任したとき、吉田氏は彼から特別なポジションを与えられることになる。それは「PSはインディーゲームを大切にしていないのではないか」というコミュニティやメディアからの声を受けて用意された“インディーゲームイニシアチブ”の代表という役職だった。当時すでにインディーゲームもまた大好きで、こうした声を心配もしていた吉田氏は「自分にしかできない仕事ができる役職かもしれない」と、この申し出を引き受けることに。
それまでファーストパーティのゲーム開発に携わる中ではあまり関わってこなかった、世界各国のメーカーのインディーゲームを手掛ける若い社員やクリエイターともいっしょに仕事をするようになった吉田氏。自身にとっても刺激は大きく、非常にやりがいがあったという。
「任天堂さんの本社には行ったことがないんですよ。一度訪問したいなぁ」
ここまでの話を踏まえ、トークテーマは“いまのゲーム市場に足りないもの”という非常に大きなものに。これに対して吉田氏はまず「発売されるゲームの数がむちゃくちゃ増えている」点に言及。Steamで発売されているタイトルだけでも年間で2万本弱に上っており、そこまでではないもののコンソール機向けタイトルのリリース数も非常に多くなっている。
たくさん作られることで、尖ったゲームや光るものがあるゲームが生まれ、ヒットする土壌になっている一方で、ユーザーに見つけてもらうのが「本当に難しくなっている」と話す。本数の増加に加えて、いつまでも遊べるように設計されている「フォートナイト」や「Call of Duty」などライブサービス型のゲームがユーザーの可処分時間の多くを使わせているのも、新作ゲームを開発する立場にしてみれば悩みの種だろう。

とはいえ、数多くのゲームが作られている状況は幅広いユーザーの趣向に応えられる業界であることも意味する。大手メーカーが手掛ける大作は投資金額も大きくハイクオリティだが、失敗が許されないことからゲームジャンル的にも冒険の少ないものに限られており、続編モノも多くなっている。新しいものはインディーゲームから出てくることが増えており、ライブサービス型のゲームもあるという状況の中で、ひとりひとりのユーザーにいちばん合っているゲームをいかに届けるか? というのが業界としての課題であるとした。
また、大作ゲームの大型化、開発の長期化により、「クリエイターが生涯で関われるゲームの本数が減っている」ことと、「作り手側もゲームの全体像を把握できないことが増えている」ことも話題に。そんな中で「大手メーカーの中にも別のブランドを用意して少人数での開発を行うところが増えている」のも注目すべき流れだと考えているという。黒川氏からバンダイナムコスタジオ内のインディーゲームレーベル・GYAAR Studio(ギャースタジオ)の名前が挙がると、吉田氏は「“人を育てる”という観点でもすごくいい取り組みだと思う」と話した。
関連して、日本でも海外のようにインディーゲームをパブリッシングするメーカーが増えたり、メンターシップのようなさまざまな形のサポート体制が増えているのもまた良い流れであるとした。吉田氏もアドバイザーとしてクレジットされているTBS日曜劇場の「アトムの童」やNHKの「ゲームゲノム」などにより、インディーゲームを含む昨今のゲームの多様さが一般の人まで広まりつつあるのも作り手側にとっていい環境であると考えているようだ。

ずっと“大好きなゲーム”のために奔走してきた吉田氏だが、SIEを辞めることが決まってからも精力的に活動し続けている。「これからなにをやりますか?」という質問には、「これまでソニーの立場で仕事をしてきた尊敬すべきインディーパブリッシャー・デベロッパーさんたちのアドバイザーをさせていただいています、めちゃくちゃ楽しいですよ」と笑顔で語る。
ソニーの肩書きが外れたことによる自由も楽しんでいるようで「任天堂さんの本社には行ったことがないんですよ。一度訪問したいなぁ」とも話していた。ちなみに任天堂でインディーゲームを担当している副島佑介氏たちのチームとはソニー在籍時からすでに仲良しとのこと。「インディーゲームを盛り上げたい、もっと広めたい」という想いの前には、我々が考えるほど“ライバル企業同士”みたいな意識はないのかもしれない。

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