【中国ゲーム文化を読む by UCG JAPAN】第14回「中国コンソール市場の三十年」互換機、規制、そして再興 その1はじめてゲーム機が“家”に来た日

中国ゲーム文化を読む by UCG JAPAN
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中国ゲームメディアUCGによる連載企画第14回は、UCG本誌で掲載されたコラムの翻訳版「中国コンソール市場の三十年」第1回をお届けする(全4回)。

これまで中国でゲーム市場について語るとき、それは北米や日本、英国をはじめとする欧州について語ることと同義であった。確かにそれらは大きく、洗練された市場に見える。しかし、多くの中国のゲームメディア関係者の胸の内には、いつか中国が世界の家庭用ゲーム機市場を左右する存在になってほしい、という思いがある。そのためにまず必要なのは、言うまでもなく中国における販売ハードの充実だろう。

2019年12月にNintendo Switchの中国本土版が正式に発売されたことで、いわゆる家庭用ゲーム機の“三強”が再び中国で顔をそろえた。各社の準備状況も、外部環境の受け入れ体制も、かつてとは比べものにならないほど整っていた。それは私たちに、中国市場への新たな期待を抱かせると同時に、過去の記憶を呼び起こす出来事でもあった。中国におけるコンソール市場の歩みを振り返ると、その歴史は複雑で、地域ごとに事情も大きく異なる。すべてを網羅的に語ることは難しい。

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本連載では、そうした大きな流れを踏まえつつも、あくまで個人的な視点から見聞きしてきた出来事を中心に描いていく。かつて確かに存在した人や場所、そして今では失われてしまった風景を辿りながら、ゲームコンソールたちと再会していければと思う。この文章が、読者の記憶や感情に、わずかでも触れることがあれば幸いだ。

非公式クローン機と互換機

筆者は1980年代、中国・広東省の沿海地域で育った。いわゆる改革開放の恩恵を受け、周囲にはいち早く裕福になった家庭も少なくなかった。そのため「ある友人の家でゲームを遊ぶ」といった体験が幾度となく繰り返され、筆者も中国における家庭用ゲーム機市場の変遷を、比較的最前線で見てきた観察者・記録者の一人になったと言える。

1980〜90年代当時、中国では家庭用ゲーム機に対して特別な規制があったわけではない。大々的に宣伝されることはなかったが、明確に禁止されていたわけでもなかった。多くの場合、それらは単なる家電製品の一種として販売されていた。1990年、父は番禺・市橋の家電市場まで足を運び、数百元を支払って「小林通」第五世代と呼ばれる機種を買ってきた。ファミリーコンピュータ(FC)のソフトが遊べる互換機で、当時としては比較的高価なものだった。しかしその後、幾度もの引っ越しを経る中で、そうしたやや時代遅れになった機器は、いつの間にか手元から失われてしまった。いま父はすでに他界し、ゲーム機もどこにもない。三十年前のゲームの記憶の中にしか、すでにその光景は存在しない。

1980年代初頭まで、世界的にはAtariが圧倒的な存在感を持っていたが、中国のプレイヤーにとってAtari 2600は非常に珍しい存在だった。私が親戚の家で初めてそれに触れたときには、すでにFC(正確にはFC互換機)で遊び慣れていたため、「曾經滄海難爲水(一度海を知れば他の水では満足できない)」といった感覚に近く、強い魅力は感じなかった。

ちょうど中国が資本主義の段階を十分に経ることなく社会主義の初期段階へと移行したと言われるのと似て、私たちもまた、ゲーム機の第一世代・第二世代の競争をほとんど体験することなく、いきなり第三世代の恩恵を享受することになったのである。

Atari 2600
Atari 2600

まず、「互換機」という概念について触れておく必要がある。

本来この言葉は、正規ハードのライセンスを受けたOEM製品や、セカンドパーティーと共同で生産された特殊モデルの本体を指していた。しかし当時の中国では、いわゆる「正規品」や「公式流通版」といった概念自体がまだ一般的ではなく、1980年代末から1990年代半ばにかけてのゲーム機市場においては、FC互換機のほうがむしろ並行輸入品の正規機よりも広く流通し、多くのユーザーに支持されていた。

互換機の誕生と発展は、私たちがよく知る1980年代末から始まったものではない。実際に家庭用ゲーム機の歴史において、ハードメーカーが他国の代理店にライセンスを与え、現地で互換機を生産させる例は数多く存在していた。

海外から輸入される製品は当然ながら高価になりがちだが、販売地域でより安価な原材料や生産ラインを確保したほうがコスト面でははるかに有利である。そのため大手メーカーは、現地の販売業者と提携して生産を委託することを積極的に選んだ。また、現地に拠点を持たない国や地域においては、適切な代理店を見つけ、その市場理解を活かして販売戦略を立て、利益の最大化を図るという形が一般的だった。

任天堂はFCの製造コストを抑え、ソフトのロイヤリティ収入に加えてハード販売からも利益を確保するため、リコー製の汎用チップを採用した。このチップは比較的安価であることに加え、代替が効きやすいという特徴を持っており、海外でのライセンス生産を前提とした合理的な選択でもあった。たとえ生産拠点で部品が不足しても、代替品を容易に調達できるという利点があったのである。

しかしこの設計は同時に大きなリスクも孕んでいた。関連するプログラムを解析・突破できさえすれば、FC本体は比較的容易にコピー可能になってしまう構造でもあった。なお、こうした動きが最初に起こったのは、当時まだ「ゲーム産業の未開地」とも言えた中国本土ではない。むしろ、いわゆる「第三世代互換機」の起点として知られるのは台湾地域である。

1980年代初頭、台湾ではゲーム機を含む文化産業に対して非常に厳しい規制が敷かれていたが、80年代中盤から後半にかけてその状況は徐々に緩和されていった。任天堂は1984年、「声宝」(シャープの現地表記)と提携し、FCシステムを内蔵したテレビ「マイコンピュータテレビC1」を発売、一定の市場反応を得た。その後2年を経て、博優と提携し正式にFCの正規版を販売するに至る。1990年代初頭になると、日本の大手メーカーは次々と台湾に現地法人を設立し、任天堂も子会社「任天堂溥天」を設立して引き続き博優と協力関係を築いた。ただしこの協力関係は書面契約として明確に定義されておらず、後にさまざまな問題を引き起こすことになるが、主題から外れるため、ここでは深入りしない。

もう一つ興味深い存在として挙げられるのが、台湾の企業・嘉霖行である。もともとセガの台湾代理店だった同社は、セガの初期ハードに独自のカスタマイズを加え、外観や性能にまで大幅な改変を施した。その結果誕生した「阿羅士」シリーズは、外見や追加機能の面でオリジナル機とは異なる独自の個性を持つ製品となった。これらの機種は後に並行輸入品として中国本土にも流入したが、FC互換機と比べるとややニッチな存在にとどまっていた。

やがてセガが子会社を通じて台湾市場に本格参入し、販売権を再び自社に取り戻すと、嘉霖行はその座から外されることになる。しかし豊富な生産経験と技術を持っていた同社はすぐに新たな道を見出し、既存の技術を活用して独自の互換機を開発した。彼らが次に狙いを定めたのは、かつてのパートナーであったセガではなく、FCだったのである。「勝天」と名付けられたその機種には連射機能が追加されており、操作性の面でも強化が図られていた。

とはいえ、このような改良を加えたとしても、嘉霖行が市場で大きな成功を収めることはなかった。当時の台湾市場にはすでに多数の互換機メーカーが存在しており、「勝天」もその一つに過ぎなかったのである。

「勝天919型」FC互換ゲーム機
「勝天919型」FC互換ゲーム機

「后来居上(後から来た者が、先に来ていた者を追い抜いて上位に立つ)」という言葉どおり、台湾・晶技は「小天才」というゲーム機(現在の同名スマートウォッチ企業とは無関係)を開発し、無許可の互換機を生産する最初期のメーカーの一つとなった。「小天才」は台湾市場で一定の成功を収めただけでなく、任天堂がまだ進出していない、あるいは積極的に展開していなかった地域――ロシアをはじめとする東欧やラテンアメリカにも進出した。ロシアでは「Dendy」、ポーランドでは「Pegasus」といった名称で展開されるなど、各地でローカライズされていった。そして中国本土市場においては、その存在が後に大きな影響を及ぼす、いわば“開けてはならない箱”を開くことになる。

「小天才」は中国本土において、最も早い時期に広く知られ、かつ最も一般的に普及したFC互換機の一つであり、その認知度は当時の正規FCに匹敵するほどだった。その影響力は大きく、後に登場する多くの模倣互換機はこれを雛形としており、外観がほぼ同じであるだけでなく、名称までも「小〜」といった形で類似させる例が相次いだ。ただし外装のコピーは容易でも、内部のチップ技術を短期間で再現することは簡単ではなかった。

ここで登場するのが、もう一つの重要な企業である聯華電子(UMC)である。多数の高度技術者を擁していた同社は、当初ゲーム機そのものの製造には関与せず、互換機の中核であるCPUチップに着目した。技術者たちはFCに搭載されていたカスタム版のリコー6502チップを解析・リバースエンジニアリングし、短期間で量産に成功する。こうして生産された膨大な数のチップは、比較的低価格で中国本土に流入し、多くのメーカーが互換機を製造する際の基盤となった。

もちろん、それまでゲーム機の製造経験を持たなかったメーカーにとって、「工業デザイン」という概念はほとんど存在せず、基本的には既存製品をベースにした再加工が主流だった。後には、外観やコントローラーをPlayStation風に模倣したりする例も現れたが、その中身はあくまでFC互換機に過ぎなかった。それでも、こうした供給の拡大によって需給バランスが変化し、それまで数百元もしていた家庭用ゲーム機の価格は大きく引き下げられることになる。かつては手の届かない存在だった家庭用ゲーム機が、ようやく一般家庭にも広く普及していったのである。

中国における国産ゲーム機の波を語るうえで、広東出身の実業家・段永平の存在は欠かせない。後に歩歩高(中国の電子機器メーカーBBK)のDVDや学習機、さらにはOPPOやVivoといったブランドへとつながり、ひいては拼多多(中国ECプラットフォーム)の成長にも影響を与えた人物である。だが、その出発点となったのは一台の「学習機」だった。

1989年、段永平は中山市怡華グループ傘下の小霸王(Subor)に入社する。当時の同社はまだ後年のような成功企業ではなく、200万元もの赤字を抱えていた。工場長に就任した彼は、新たな活路を模索せざるを得なかった。そしてチームを率い、わずか数か月でFCの中核となるハードウェア技術を解析・再現し、生産可能な状態にまでこぎつけたのである。

しかしここで大きな問題が立ちはだかる。当時の中国では、「遊びは身を滅ぼす(玩物喪志)」という価値観が根強く、教育的価値を直接持たない娯楽機器は、多くの親にとって歓迎される存在ではなかった。後年ほど強く否定されていたわけではないにせよ、子どもに積極的にゲーム機を買い与える家庭はほとんどなかったのである。

段永平はこの心理を的確に見抜いた。当時徐々に広まりつつあった「学習機」という形式に着目し、FC互換機にキーボードを搭載し、LOGO言語や英単語学習、五筆入力といった“実用的”なソフトを組み込むことで、「小霸王学習機」として製品を再定義したのである。当時はまだ「社会心理学」や「消費者心理学」といった概念が広く知られていたわけではないが、彼のこの発想はまさに見事なものだった。

ジャッキー・チェンによるCMと、「小霸王、楽しさ無限!」というフレーズこそが、多くのプレイヤーにとって小霸王ゲーム機のイメージとなっている。
ジャッキー・チェンによるCMと、「小霸王、楽しさ無限!」というフレーズこそが、多くのプレイヤーにとって小霸王ゲーム機のイメージとなっている。

心理学には「フット・イン・ザ・ドア(段階的要請)」と呼ばれるテクニックがある。人は一般的に、負担が大きく成功の見込みが低い要求には応じにくいが、比較的容易で小さな要求であれば受け入れやすく、それをきっかけにより大きな要求も受け入れるようになるというものだ。

「小霸王学習機」は、まさにこのアプローチを体現していた。当時、少年宮(小・中学生向け校外学習施設)などで受けるコンピュータ講座が1学期あたり100元以上する時代において、「学習」という名目で保護者の心理を巧みに刺激し、「子どもをスタートラインで遅れさせたくない」という思いを引き出すことで、財布のひもを緩めさせたのである。その後の展開は、もはや言うまでもない。

もちろん、この「学習機モデル」は中国本土のメーカーが最初に考案したものではなく、台湾でもすでに一定期間存在していた。しかし中国市場においては、より徹底したローカライズが行われた。VCD(ビデオCD)市場の拡大に合わせて、「歩歩高」はVCDとFCを組み合わせた製品まで投入し、結果的にマイクロソフトよりも早い段階で“リビングを占有する”家庭用エンターテインメント端末を実現していたとも言える。

当時、ゲームメーカーが意図的かどうかは別として中国市場を十分に重視していなかったこともあり、このようなシンプルで大胆なローカライズは、消費者心理(より正確には当時の保護者の比較的素朴で実利的な価値観)に強く合致していた。例えば、1本ごとに販売される正規カセットよりも、「99in1」のように複数のゲームが収録されたカセットのほうが魅力的に映ったのである。もっとも、その多くは実際には同一ゲームのバリエーション違い(たとえば『魂斗羅』で初期武器が異なるだけなど)に過ぎなかった。

さらに当時は、「次世代機」や「8ビット機と16ビット機の違い」といった概念もほとんど共有されていなかった。そのため市場には複数のブランドや世代のハードが混在し、並存する状況が生まれていた。多くのユーザーはメガドライブとFCの違いを明確には理解しておらず、ただ「黒いカセットのほうが高い」といった程度の認識で、異なる世代のハードとソフトが同じガラスケースに並べられていたのである。いま振り返ると、それもまた独特の光景だったと言えるだろう。

あの時代を経験したプレイヤーなら誰もが知っているが、“合体カセット”は、収録本数が多ければ多いほど良いというものではなかった。
あの時代を経験したプレイヤーなら誰もが知っているが、“合体カセット”は、収録本数が多ければ多いほど良いというものではなかった。

「なぜ任天堂はこれほどまでに無秩序なコピー品や互換機の拡大を放置していたのか」と疑問に思う人もいるかもしれない。実際には決して放置していたわけではないのだが、初期の段階で任天堂は「天元」という企業に関わる海賊版カセットの訴訟問題に足を取られていたうえ、ロイヤリティ制度に不満を持つメーカーが次々と離反し、状況はさらに悪化した。その後も、バーチャルボーイやニンテンドー64の展開が相次いで苦戦し、FCタイトル自体も徐々に国際市場の主流から外れていく。加えて、中国本土との間にはさまざまな制度的・流通的な障壁も存在していた。

こうした複数の要因が重なった結果、任天堂は中国本土における互換機やコピー市場に対して決定的な打撃を与えることができず、別の方法で長期的に対応せざるを得なかったのである。

一方で、こうしたメーカー側の十分とは言えない対応は、中国のゲーム市場におけるある種の“特異な繁栄”を生み出すことにもつながった。国営の百貨店でさえ、いわゆる「黄卡」(非公式のゲームカセット)が販売され、しかもその価格は100元を超えることも珍しくなかった。さらに、オーディオショップや時計店、さらには質屋のような業種までもがゲームカセットを店頭に並べ、市場に参入しようとしていた。

中には、もともと雑貨を扱っていた小規模な店舗がゲームショップへと業態転換する例も現れ、こうして暗黙のうちに一種のゲーム市場が形成されていく。その結果、私たちの子ども時代のゲーム体験は、より豊かで、より混沌としたものになっていったのである。

UCG JAPANは、創刊28年を迎える中国のゲームメディアUCG Mediaの日本における活動拠点です。中国本土ではゲーム雑誌「ゲーム機実用技術」の出版をはじめ、WEBやオフラインイベントなど多様なプロモーションチャネルでゲーム情報を発信しています。この連載では、日本の皆さんに現在の中国におけるゲーム文化をお伝えしていきます。

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