中国ゲームメディアUCGによる連載企画第15回は、UCG本誌で掲載されたコラムの翻訳版「中国コンソール市場の三十年」第2回をお届けする(全4回)。

記憶の中にある、両親の月収を合わせても2000元余りという子ども時代。香港へ移住したり、あるいは帰省で海外から戻ってくる友人たちは、よくゲーム機を持ち帰ってきてくれた。彼らの家に通って遊ばせてもらう日々は、どこか遠慮がちではあったが、何よりも楽しい時間だった。
子どものころに何度か目にしたことがあるファミコン(FC)は、本体の赤いロゴの右側に「HONG KONG VERSION」と記されていた。これは任天堂が香港向けに用意した専用モデルで、中国本土の多くのプレイヤーにとって、このバージョンこそが最初にFCの魅力に触れるきっかけとなったのである。
並行輸入品と正規品、そしてコピー品
このFCの大きな特徴のひとつが、ディスクシステムと組み合わせて使用できる点にあった。カートリッジよりもはるかに大容量のゲームを実現できるこの周辺機器は、中国本土ではあまり知られていなかったが、結果としてハードの寿命を大きく延ばすことにもつながった。そして「ゼルダの伝説」というトップクラスのゲームシリーズも、このディスクシステムから始まっている。
また、自動販売機文化が発達していた日本において、任天堂はカートリッジのコストや問題を改善するため、ディスクの書き換え機をおもちゃ屋に設置した。専用ディスクを持ち込めばデータを書き換えることができる機械で、1回あたり数百円程度とカートリッジを購入するよりもはるかに安価だった。これによりユーザーは新作を手軽に入手できるようになったのだ。
FC本体もディスクシステムも、いずれも香港市場には正式に流通しており、西門玩具有限公司が総代理店を務めていた。しかし残念ながら、これらが中国本土に正規ルートで導入されることはなかった。それでも私たちがFCを遊ぶことができたのは、隙間なく入り込んでくる並行輸入業者の存在があったからである。
筆者が幼い頃によく通っていた広州の海印電器城や、仏山の先鋒古・銀花総匯・CD街、さらには1990年代に初めて香港を訪れた際に何度も足を運んだ荃湾の荃豊中心や九龍城の龍珠商場など、そうした場所では何かを買って帰れることは少なかった。むしろ、店を出る際にふと振り返り、高いガラスケースの上に飾られているゲーム機の箱を眺める――それだけでどこか後ろめたさと高揚感が入り混じった、特別な感覚を味わっていたのである。
1990年代半ばになると、互換機は徐々に歴史の表舞台から姿を消し、代わって並行輸入されたゲーム機が人々の関心の中心となっていった。とりわけその価格には驚かされたものだ。正規のFCが700〜800元程度(都市部で働く労働者の月給の約1.5倍〜2ヶ月分)だったのに対し、いわゆる次世代機はすでに5000〜6000元近くに達し、大作ソフトも最低で700元以上と、一般的なサラリーマン家庭が気軽に手を出せる金額ではなかった。
そのため、高額な次世代機を購入できるのは、多くの場合ゲームショップを営む“投資者”たちだった。街角のガレージを改装した小さな店に機材を置けば、近くの小中学生たちはまるで匂いを嗅ぎつけたサメのように、放課後になると自然と集まってくる。2〜3人でお金を出し合い、それぞれの小遣いを少しずつ節約すれば、放課後の1〜2時間をそこで過ごすことができた。そうした環境の中で、家庭にあったFC互換機は次第に遊ばれなくなり、ある意味では自然な形で世代交代が進んでいったのである。
第三世代においては、香港版の正規FCは中国本土の多数の互換機に押され、他地域のような圧倒的な存在にはならなかった。ディスクシステムに至っては見かける機会もごくわずかだった。しかしこの状況はSFCの時代に入ってやや変化する。正規のスーパーファミコン(SFC)が徐々に認知されるようになり、互換機による市場の分散も比較的少なかったため、存在感を示すことができたのである。
そして並行輸入品や正規品とともに登場したのが、いくつかの“特殊な周辺機器”だった。その中でも特に有名なのが「スーパーファミコン用ゲームドクター(超任博士)」である。若い世代のプレイヤーの中には知らない人もいるかもしれないが、これは任天堂が公式に発売した製品ではなく、海賊版ソフトを動作させるための装置に過ぎない。

「ゲームドクター」の起源は、FCのディスクシステムにまで遡る。中国本土ではほとんど普及しなかったものの、非公式なディスクシステムのコピー版は存在していた。香港の企業・麦高は「ゲームドクター」という装置を発売し、「抄碟」(広東語で“コピーしたディスク”の意)と呼ばれるデータディスクと組み合わせることで、ディスクシステムと同様の機能を実現していた。「ゲームドクター」の登場は同社にとって大きな成功となり、香港におけるゲーム環境にも変化をもたらした。
この発想は次世代機にも引き継がれていく。メーカーは、解析が難しく価格も高いカートリッジや本体チップそのものではなく、「ゲームドクター」のような周辺機器の開発へと注力するようになった。当時の香港では、麦高のほかにも飛鷹や超任宝といった類似製品が複数登場している。そして「ゲームドクター」のメーカーである麦高も、SFC向けに「超任博士」を投入した。これは「無限残機」や「スローモーション」といったTAS的な機能を売りにしていたが、その真の目的は言うまでもない。ただしそれを明確に宣伝していなかったため、任天堂の法務部も直ちに販売を止めることはできなかったのである。
しかし、SFCやゲームボーイが香港で成功を収めたことは、任天堂に一つの示唆を与えた。すなわち、急速に開放と成長を遂げつつある中国市場へ、改めて目を向ける必要があるということである。
1994年、任天堂は香港の企業・万信と契約を結び、同社を通じてSFCおよびゲームボーイを中国本土向けに販売する体制を整えた。これは中国本土において、正規ルートで輸入された最初期のゲーム機の一つである。
技術的なハードルが比較的低かったゲームボーイは、手頃な価格、豊富なソフトラインナップ、そして「四大天王」の一人であるアーロン・クオックの広告効果も相まって、中国市場での普及に成功した。ただし、そのシンプルな構造ゆえに解析も早く進み、複数のゲームを1本に収録した海賊版カートリッジが登場。ボタン一つで次のゲームに切り替えられるようになった。海賊版カートリッジが急速に増加する中、万信は販売チャネル拡大のために正規品と海賊版を同時に扱うことを事実上黙認し、結果として任天堂の計画は大きく狂うことになる。

一方、SFCの道のりはより困難なものだった。「超任博士」と呼ばれる周辺機器は堂々とテレビCMまで展開し、電波を通じて珠江デルタ地域へと広がっていった。街角の小さなゲームショップにも、次第にこうした機器が並ぶようになる。当時まだ子どもだった筆者は、その仕組みをよく理解しておらず、SFCがカートリッジを挿して遊ぶものだということすら知らなかった。「超任博士」と本体がセットで販売されるものだと思っていたのである。
その認識が改まったのは、「武田修宏のスーパーリーグサッカー」の正規品カートリッジが実際にSFC上で動作しているのを目にしたときだった。そしてその価格が数百香港ドル(当時は香港ドルのほうが人民元よりも高かった)であることを知り、羨望や落胆といった複雑な感情を抱いたことを覚えている。それでも、「超任博士」とディスクで遊んでいた「実況ワールドサッカー パーフェクトイレブン」は、私たちにとってサッカーゲームの原体験となった。
当時のゲームショップには、ゲームコードを記録するための専用ノートが用意されていた。「ディスクのコピー」を依頼する際には、その暗号のようなコードを伝えるだけでよかった。海賊版の書き込みも専用の書き換え機を必要とせず、パソコンとフロッピードライブがあれば十分で、どこか地下取引のような雰囲気さえあった。こうして徐々に整備されていったコピー流通の体系の中で、SFCは厳しい状況に置かれていたが、プレイヤーにとっては結果的に次世代機へと踏み出すことができた時代でもあった。
多くのゲームは複数枚のディスクを必要としたが、1回4元程度の書き込み料金はカートリッジを購入するよりもはるかに安価だった。特に印象に残っているのが「メタルマックス2」である。起動するたびに複数のディスクを読み込ませる必要があったが、その分ゲーム内容は非常に奥深く、当時まだ日本語に不慣れだった私たちは、数人で長い時間をかけ、攻略本を頼りに少しずつ進めていった。
あの頃は時間が過ぎるのが早く感じられた一方で、忍耐力は今よりもずっとあった。日本語を手探りで理解しながら200時間以上かけて「メタルマックス2」をクリアしたり、「第2次スーパーロボット大戦」では基地に待機し続け、回復しながら敵の攻撃に耐え、100ターン以上かけて機体の経験値を最大まで稼いだり。ゲームボーイ版「熱闘 ザ・キング・オブ・ファイターズ'96」では、不可能に思えるコンボ技をひとつずつ試してみた。そうした体験が当たり前のように存在していたのである。
任天堂が中国市場への本格進出を進める一方で、セガは1980年代にワープロ販売で成功していた四通に目を付け、セガサターン(SS)の販売代理を全面的に委ねた。長年にわたり中国市場に根を張ってきた四通は、その運営にも精通していた。同社の手によって一定の中国語対応が施されたSSは国内で順調に普及し、「性能面でSFCを上回る」というイメージをプレイヤーに植え付けることに成功する。結果として、世界的には苦戦していたセガのゲームハードは、中国市場において一定のシェアを獲得することになった。
任天堂とセガは、それぞれ自社ハードの普及に向けてさまざまな戦略を打ち出し、その結果プレイヤーは二つの陣営に分かれ、互いに対立し、時に見下し合うような状況すら生まれていた。また、「万信」と「四通」のどちらが“真の中国向け正規機の先駆者”なのかという議論も、論争の中心的なテーマの一つとなっていた。これは単なる企業同士の立場争いというよりも、任天堂派とセガ派という二大ファンコミュニティの対立の表れだったと言える。
万信は香港返還前の企業であり、厳密には中国本土の企業とは言えないが、最も早い段階で正規ゲーム機を中国本土に持ち込んだ存在である。一方で、四通によるセガハードの展開はやや遅れて始まったものの、四通自体は純粋な中国本土企業である。双方にそれぞれの正当性があり、議論は平行線をたどり、決着がつくことはなかった。
こうした二大メーカーの本格進出という大きな流れの陰で、見落とされがちな存在もあった。かつて互換機用チップの供給によって数多くの互換機誕生を支えた台湾・聯華電子(UMC)は、その子会社である敦煌科技を通じて、16ビット機「Super A'Can」を1995年に発売している。これは中国人が初めて自主開発した家庭用ゲーム機であり、性能や発色の面でも16ビット機としては十分に優れた水準にあった。

Super A'Canは1990年代半ば、既存の流通ルートを通じて中国本土市場にも投入され、まだ正規ゲーム機が本格的に普及していなかったこの市場において、一時的に“三つ巴”のような構図を生み出した。ただしそれが「やや気まずいトライアングル」だったのは、1990年代中後期にはすでに世界のゲーム機市場が第五世代へと移行しており、大量の並行輸入機が中国本土に流入し始めていたためである。その中には、第5世代を代表する存在であるPlayStationも含まれていた。
第四世代を代表するSFCや、32ビット性能を持つSSでさえ中国市場を完全に開拓するには至らなかった中で、十分なソフトラインナップを持たないSuper A'Canが、ゲーム史において大きな足跡を残すことができなかったのは、ある意味で必然だったとも言える。
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