中国ゲームメディアUCGによる連載企画の第2回は、UCG本誌で掲載されたコラムの翻訳版「Master Love(麻辣)中国における二次元ゲームの“タンタロス神話”」をお届けする。
中国における美少女ソーシャルゲーム文化はどのように広がり、遊ばれてきたのか。現在は国際的な人気作が多数、中国から生まれているジャンルだが、その始まりは順風満帆とはいえなかった。

この一年あまり、ある友人から「ゲームの中で自分のキャラクターに名前をつけられない」という不満を何度も聞かされてきた。2018年にサービスを開始した「アイドルマスター シャイニーカラーズ(以下、シャニマス)」の話である。
この友人は筋金入りのアイマスファンだ。かつて 39度の高熱のなかXbox360版「アイドルマスター(以下、箱マス)」で天海春香を育て、苦労の末ようやくパーフェクトエンドに辿り着いたという。彼にとって、ゲームの中で充実感と満足感を得るための“必要条件”の一つが、「プロデューサーの名前」が“自分”であることだった。しかし「シャニマス」はシリーズ作と大きく異なる。本作はアーケード版(以下、アケマス)・家庭用版「アイドルマスター」の要素を継承・オマージュしているが、過去作のようにプレイヤーの分身として「○○P」と自由に命名し、物語に“自分として”入り込める仕様ではなかった。ゲーム内では「プロデューサー」と表記されるだけである。
さらに物語上、この“プロデューサー”はプレイヤーの投影ではなく、独立した人格と行動原理を持つ固有のキャラクターとして描かれる。プロデューサーには数えきれないほどの「良さ」があるが、決してプレイヤー本人ではないのだ。友人はこうした設定を受け入れられず、同じファンが集まるコミュニティで「物語を純粋に楽しめていない」「自己投影に固執している」と責められたそうだ。
当初、筆者は「単なるプレイスタイルや好みの差ではないか」と軽く考えていた。別のゲームに移ればよい、とも助言した。しかし次第に、この問題はそれほど単純ではないことに気づいた。少なくとも、彼がアイドルを育てる過程で情緒的な結びつき(場合によっては“愛”と呼べる感情)が生まれていたことは確かである。「アケマス」「箱マス」ではアイドルがプロデューサーに想いを寄せる(いわゆる Pラブ)。スマホアプリでは表現が抑えられたものの、各シリーズは依然としてPラブ的要素を引き継いでいる。
しかし、プレイヤーが「傍観者」と化し、アイドルが愛情を向ける相手が“ゲーム内の別キャラクター”になった瞬間、見えない隔たりが生まれる。それはプレイヤーが求める情緒的価値の充足に影響せずにはいられない。「シャニマス」でアイドルからの“愛”を探そうとしたとき、プレイヤーは気づくのである。「あれは“私”じゃない。私はただ見ているだけで、何一つ手に入らない」と。
以上の解釈は、近年の中国「二次元ゲーム(※)」コミュニティにおけるさまざまな思潮の噴出に対して、ひとつの答えとなるだろう。中国二次元ゲーム市場やその言論空間を追っている者なら誰しも、ここ数年この領域が穏やかではないことを感じているはずだ。そして無数のネット論争の矛先が最終的に到達するのが、Master Love (中国のネットミームでは麻辣)という概念である。これは「Fate/Grand Order」で広く知られた概念だが前述の「アイドルマスター」シリーズにまで遡ることができる。
※本稿ではキャラクターを中心に据えた、スマホ向けの長期運営型タイトルを「二次元ゲーム」と定義する。
タンタロスは冥界で罰を受けている。
彼の頭上には巨石が宙づりになり、足元には沼が広がっている。
その肩の両側、沼のほとりには果実をつけた木々が茂っている。
水は彼の顎先まで満ちているのに、飲もうとするとすぐに引いてしまう。
果実を取ろうと手を伸ばせば、木も実も風にあおられ、雲の彼方へと舞い上がってしまう。
——「ギリシャ神話」
ギリシャ神話でタンタロスは、神々を侮り欺いた罪によって「求めても決して得られない」苦悩の罰を受けた。そう考えると、Master Loveをめぐる一連の論争は、現代における“タンタロス神話”と言えるかもしれない。“二次元ゲームのMaster Love”を巡って争う人々は、あらゆる物事を消費主義と運営終了の泥沼へと引きずり込み、満たされない感情の発散と、商品として異形化された“愛欲”をネットに撒き散らす。その影響は創作者から消費者へ、二次元産業に関わるすべての人へと伝播していく。
中国の二次元ゲーム市場は 2010 年代に立ち上がり、大きな発展と繁栄を遂げ、結果として不可避的にメインストリームの舞台へ押し出された。加えて、世界的な保守主義の復権と価値観の衝突により、二次元ゲームという世界はさらに波立つこととなった。今こそ、中国二次元ゲーム、そして二次元産業全体の姿を整理する好機である。十字路の真ん中に立ちながら、その源流をたどり、Master Love をめぐる論点の核心を理解し、そのなかに浮かび上がる二次元ゲームの“タンタロス神話”を感じ取ってみたい。
サブカルチャーの萌芽
日本のイラストコミュニティ Pixiv で「マスターLOVE」と検索すると、もともとは二次創作を分類するためのタグであることがわかる。同人作品の中でサーヴァントがマスターに恋慕の情を抱く描写があれば、その作品に「マスターLOVE」のタグを付け、同じ趣向の読者が検索しやすくする――それが本来の意味だった。

しかし、この微妙な定義ゆえに、事情を知らない愛好者の中には疑問を抱く者もいるだろう。「サーヴァントがマスターに恋愛感情を抱く」という表現に限らず広く使用されるならば、より早く登場した「アイドルマスター」のPラブではなく、なぜMaster Loveを使うのか。
2016年にビリビリ動画が代理運営する「Fate/Grand Order」が中国本土で正式リリースされ、瞬く間に大ヒットを記録した。たびたび App Store 中国本土ランキングで 1位を獲得し、長期間にわたりビリビリの収益はほぼこの一作に依存していたほどである。同時に、キャラクターがマスター=プレイヤーに恋慕を示すという構造が、以降の業界における“常識”となっていった。
その後、中国のファンコミュニティはMaster Loveという語を借用し、そこから「麻辣(マーラー)」という呼称が派生した。ただし、この呼び名が広く浸透するのは、ずっと後のことである。
では、ビリビリ動画とはどういう場所だったのか。業界ウォッチャーは「中国本土で最も人気の UGC(User Generated Content)コミュニティであり、中長尺動画の分野で絶対的優位を持つ」と説明するだろう。あるいは、「中国版 YouTube」と呼ぶ者もいる。しかし根本的には、ビリビリ動画は二次元文化によって成長したコミュニティである。企業としては投資家向けに別の物語を語りたがるが、実際には二次元への依存はいまだ強く、最近でもビリビリ動画のUP主(投稿者)が「これが本物のオタクだ」という動画を投稿し論争になった。
状況を整理すると、中国の二次元産業自体が本格的に立ち上がったのは 2010 年代である。それ以前のACGN(アニメ、コミック、ゲーム、小説)コミュニティは、文字通りのサブカルチャーであり、ごく小さな同好の集まりに過ぎなかった。ある匿名の愛好者は筆者にこう語っている。「当時はネットも今ほど発達していなくて、漢化(翻訳)チームや同人文化も今と比べてずっと素朴でした。“愛で動く”“自分の満足のために作る”という精神が共通認識で、いわば『小さな部屋に籠って独りの世界を作っていた』ようなものでした」と。

私たちが知っているように、日本のオタク文化はインターネットとの出会いによって爆発的な拡大を遂げ、ACGNは2000年代に新たな局面へ突入し、高速成長期を迎えた。では、その頃の中国本土はどうだったのか。アニメや漫画はまだ追随できていたものの、ゲームに関しては政策上の制約もあり産業の発展は困難で、いびつな形になっていた。同時期、中国のゲーム市場ではモバイルゲーム「征途」のようなF2P方式のオンラインゲームが幅を利かせ、韓国産ネットゲームの代理運営も一般的だった。その結果、2000年代の若者世代が“PCオンラインゲーム黄金期”をリアルタイムで経験することになった。
一方で、日本は長年の試行錯誤の末に、いち早く「ソーシャルゲーム」というカテゴリーと、ガチャによるビジネスモデルを発明した。この方式は到来しつつあったモバイルインターネットとの相性がきわめてよく、中国の二次元ゲーム生態系が形成されるための“お手本”(むしろ“輸出”と言うべきもの)を提供した。
「拡散性ミリオンアーサー」は、ある意味で中国の二次元ゲーム市場における初期教育を担った作品である。現在の姿とは大きく異なる部分も多いものの、この作品がもたらした衝撃は決して小さくなかった。そしてモバイルインターネットの追い風を受け、中国のゲームメーカーは急速に二次元ゲームを学んでいった。
その代表例が、Lilith Gamesの「Soul Crash」であり、以降、多くの中国二次元ゲームがこの作品を参照することになった。さらに重要なのは、この時期に新たな領域へ踏み出そうとする開拓者が現れたことである。現在の業界を牽引するmiHoYo(2011 年創立)や、サンボーンの前身であるMICA team(中国名:雲母組)が2013年にリリースした「逆コーラップス:パン屋作戦」などがその典型だ。

数年にわたる種まきの期間を経て、中国の二次元市場は徐々に成熟し、「陰陽師」「ドールズフロントライン」「崩壊3rd」といった人気タイトルが誕生した。これらの作品は初期ユーザー層を育て、市場としての二次元ジャンルの商業価値を証明した。


自粛する“二次元ゲーム”
中国本土では、どれほど活気ある産業であっても、最終的には規制の枠組みの中で大きな発展と繁栄を遂げることになる。規定によれば、モバイルゲームはネットワークゲーム、つまりインターネット出版物に分類され、正式に運営するためには出版内容審査を通過しなければならない。
2018年、政府組織の職能調整および部署間の移行などを理由に、ゲーム版号(ライセンス)の審査と発行が一時停止された。公式メディアはこれを「ゲーム市場の秩序化・高品質化を側面から促す措置であり、客観的には中国ゲーム企業の海外展開を加速させた」と説明した。しかし現実には、この措置は大小さまざまなゲーム企業のリリース計画に大きな影響を与え、政策予測や業界展望にも不確実性をもたらした。これにより 2018年の中国本土ゲーム市場は目に見えて冷え込み、テンセントやNetEaseといった大企業から、数々の小規模スタジオに至るまで一様に困難に直面した。多くの企業は新規プロジェクトを中断し、代わりに海外展開へ舵を切り、既存タイトルのライフサイクルを可能な限り延ばす方向へ向かった。版号発行は同年末にようやく再開され、約9カ月に及ぶ空白期間は数多くの企業の計画を大きく狂わせることとなった。
このような状況の中で登場した「アークナイツ」は、極めてタイミングが良かった。長期間、新規競合タイトルがほとんど存在しなかったことが、本作の記録的な収益を後押ししたのである。もちろん時流だけではなく、作品自体のクオリティも非常に高かった。前述の「MICA team」出身のイラストチーム、簡潔で洗練されたUIデザインなど、多くの要素が高評価につながった。ある評論では「『アークナイツ』こそ、多くの中国本土プレイヤーに“二次元ゲーム”という概念を初めて受容させた作品だ」とすら語られている。これは証明が難しいものの、ネット上で「半壁江山雪之下」※といったスラングが広く使われていたことを考えると、まったくの的外れとも言い切れない。
※「半壁江山雪之下」:以前から「アークナイツ」の一部のプレイヤーが「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(俺ガイル)」のヒロイン、雪ノ下雪乃を引き合いに出して同作を称賛していた。そのプレイヤーいわく、「アークナイツは雪ノ下雪乃のように冷たく美しく、他の二次元ゲームと違う」というもので、「俺ガイル」のイメージを借りて評価を高めた。さらに、「俺ガイル」の由比ヶ浜結衣や一色いろはを使って他のスマホゲームを例えるなど、アニメキャラを“権威づけ”として利用するやり方を続けたため、この“こじつけ”に不快感を覚えた一部の「俺ガイル」ファンとプレイヤーたちが「アークナイツ」に対して反感を持つようになる。加えて、当時「アークナイツ」はよく「二次元ソシャゲ界の半分を支える存在(半壁江山)」とまで言われることがあり、それに反発するアンチ勢からは、皮肉を込めて「半分を支える雪ノ下(半壁江山雪之下)」と呼ばれるようになった。

さらに興味深いのは、この時期の“二次元ゲーム”作品、とりわけ「アークナイツ」が掲げた「硬核・不媚宅(ハードコアで“オタク迎合”ではない)」という宣伝方針である。要するにこのスローガンは、「二次元ゲームといえど、扱っているのは“オタクキモい”と言われるような内容ではない。我々のゲーム性や戦略性は非常に奥深いのだ」とプレイヤーに感じさせることを狙っていた。
このスローガンが本気であったのかは検討が必要だとして、ここでは仮に“真剣であった”としよう。そうであれば、当時「媚宅(萌え・オタク迎合)」が“良くないもの”だとみなされていたことになる。一般的に「サービスショット」、すなわち露出度の高い衣装や性的なポーズ・表現、ドキッとする台詞などが作品に含まれる場合、それは“媚宅”だと判断される。当時の市場には、まさにその特徴を備えた作品が数多く存在しており、「オタクマジでキモい」という言葉が非常に流行していた。
新世代のプレイヤーからすれば、「オタク迎合の何が悪い? むしろ多ければ多いほどいいではないか」という感覚だろう。ところが、当時は開発会社だけでなくプレイヤー側まで、“オタク迎合は避けるべきだ”という価値観が広がっており、これは一種の“自粛”といえた。
もちろん、その背景には理由がある。魯迅(ルー・シュン/1918〜1936年、中国の小説家・思想家)は1927年の雑文集「小雑感」の中で、中国社会に見られる過度な深読みや、些細なものをすぐ“特定の方向”へ結びつけてしまう想像力の飛躍を痛烈に皮肉った一文を残している。
この言葉は、現代では、本来無関係な表現まで過剰に“性的”“不適切”と断じてしまう一部の人々を批判する際によく引用される。二次元ゲームにおいても、些細な描写が必要以上に拡大解釈され、議論が炎上しやすい状況は、この“想像力の飛躍”と重なる部分があるだろう。
加えて、中国本土にはゲームのレーティング制度が存在しないから、「もし子どもがオタク迎合的な表現を見て、欲望を抑えられなくなったらどうするのか」。こうした“お上目線”の懸念が、常に規制の背後に張り付いているのである。
上で述べた認識に対して、当時のACGNファンは「90年代生まれが政界の中枢に来れば社会はもっと開放的になる」と楽観的に思っていた。前にも触れたように、二次元というアイデンティティは複雑で、しばしば歪んでいる。「自分はオタクです」と口にするのは到底できず、多くの人は「まあアニメを少し見るだけで……」とごまかす。また、極めて礼儀正しく「いえいえ、あなたこそ本物のオタクです」と返す者もいる。その後には冗談半分として、「あなたの家族全員オタクですよ」と喉元まで出かかっている。
これは一見すると愛好者同士の階層意識のように見えるが、必ずしも優越感から生じているわけではない。むしろ大多数のプレイヤーは“安全圏を確保したい”という本能から行動していた。規制が強化されたらどうするのか。世論空間が狭まったらどうするのか。政策の不確実性が大きすぎるのではないか。そうした不安が常につきまとっていたのである。リスクを負って“ギリギリ”を攻めるより、むしろ宣伝の段階で主流価値観に寄り添う方が安全だ。これこそが社会的規律の作用であり、コミュニティは政策に対して実質的な抵抗手段を持たないがゆえに、抱きしめるように順応していくしかなかった。
自粛とは、差別の中で自分を守る行為である。では、なぜ当時の開発者とプレイヤーは足並みをそろえて自粛を選んだのか。多くの愛好者は「現時点の中国本土は、まだ十分に健全なACGN生態系を持っていない」と考えていた。社会が進歩すれば、いずれ段階的に、より寛容な姿勢で二次元文化を受け入れられるようになるだろう、そう信じていたのである。隣国の日本ですら、オタク文化が成熟するまでには数々の紆余曲折があった。ご存じのとおり“宮崎勤事件”が象徴的である。2014年に「ラブライブ!」のファンが地下鉄でラッピング車両を崇め奉るだけで大ニュースになる時代だった。それを思えば、当時の愛好者による“普通の社会”に対しての警戒心も、全く理解できないわけではない。
二次元ゲーム生態系が形成され始めた初期、ビリビリ動画には代理運営や自社開発ゲームでプラットフォームを拡大したいという明確なビジョンと野心があった。「Fate/Grand Order」は一定の成功を収めたが、圧倒的優位とは言い難く、自社開発ジャンルの成果は限定的だった。こうしたビリビリ動画の状況は、多くの愛好者の判断にも影響を与えた。「ビリビリ動画ですら二次元ゲームを扱いきれないのに、他のメーカーにできるはずがないだろう」と。
しかし、現実はその予測とは異なる方向へ進んだ。愛好者たちの期待を裏切るように、二次元ゲームの大ヒットは文化そのものを白日の下へと押し出した。社会が十分に寛容になったわけではないにもかかわらず、世論の渦がすでに形成されていたのである。

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