中国ゲームメディアUCGによる連載企画第9回は、UCG本誌で掲載されたコラムの翻訳版「中国乙女ゲームの感情構造」“理想の関係性”のつくり方の第4回をお届けする(全4回)。

乙女ゲームにおいて、プレイヤーが向き合う男性キャラクターは一人だけではない。
このジャンルはそもそも、複数ルート&マルチエンディングを前提として成り立っている。プレイヤーは一人のキャラクターを深く愛することもできれば、複数のキャラクターとの関係を並行して楽しむこともできる。
それは恋愛における「浮気」なのだろうか? コミュニティでは、その遊び方に応じてさまざまな呼称が使われている。
「単推し」は特定の一人へ強い感情を注ぎ続けるスタイルであり、「複数推し」は複数のキャラクターへ感情を向ける遊び方、「箱推し」は作品全体や全ルートを包括的に愛好する姿勢を指している。本来これらに現実の恋愛のような「誠実さ」や「一途さ」といった、倫理基準は存在しないのである。
乙女ゲームでは、プレイヤーは最初から「複数の男性キャラクターの中から選ぶ」という構造の中へ置かれている。各キャラクターには独立した設定や物語が与えられ、ルート同士も基本的に干渉しない。どのキャラクターを選び、どの順番で体験するかは、完全にプレイヤー自身へ委ねられている。
制作者側も、多くの場合は全ルートの体験を前提としている。それは単なる攻略要素ではなく、作品世界やキャラクターの感情構造をより深く理解してほしいからだ。
つまり乙女ゲームの感情体験は、現実の恋愛とは根本的に異なっている。そこにあるのは「忠誠」の競争ではなく、多様な感情のあり方を並列的に体験する構造なのである。

とはいえ、コミュニティ内部では「単推し」と「箱推し」をめぐる感情的な帰属意識が強く表れることも少なくない。
単推しのプレイヤーは、特定キャラクターの設定や声、セリフ、シナリオに深く共鳴し、その関係へ継続的に没入していく。彼らにとって、そのキャラクターだけで感情的充足が成立しているため、他ルートへ積極的に向かう動機が生まれにくい。
一方で箱推しや複数推しのプレイヤーは、乙女ゲームそのものを「新たな感情に出会う場所」として捉える傾向が強い。それぞれのキャラクターやルートに異なる魅力と価値があると考えており、全ルート攻略は感情の多様性を経験するための行為になっている。だからこそ、乙女ゲームのキャラクターたちを現実恋愛の論理で捉えることは難しい。
各ルートは独立した物語として成立しており、他ルートと競合することは基本的にない。美少女ゲームで見られるような「修羅場」的構造も、乙女ゲームでは比較的希薄である。そのため、異なるキャラクターを好きになることは、構造上「裏切り」にはならない。乙女ゲームは、感情選択権そのものをプレイヤーへ全面的に委ねているのである。

しかし、女性向けアイドルゲームや乙女ゲームのコミュニティでは、「単推し」と「複数推し」の境界が非常に繊細に扱われる場合もある。没入感や感情独占性を重視する文化では、複数推しが“不誠実”のように受け取られることさえある。
「単推しって、一種の約束なんです。他のプレイヤーと共有されるものじゃない。彼は、私に安心感をくれました。現実でつらい時でも、新しいストーリーを見ると、“まだ彼がいる”って思えるんです」
そう語るLikio(仮名)は、「恋と深空」のレイを長く推してきたコンテンツ制作者であり、自らを“単推し主義者”と呼んでいる。彼女にとって、キャラクターとの関係は単なる趣味ではなく、精神的な支えに近い。だからこそ「複数推し」は感情密度を薄めるものとして映る。
「もちろん理解はできます。でも私は無理です。一人を愛していると言いながら、別の人も好きって言うのは、どこか軽く感じてしまう」
こうした感覚は、単推し文化の中では決して珍しいものではない。実際、単推しだと思っていた友人が別キャラクター本を出していたことに、失望を覚えた経験を語るプレイヤーもいる。

その一方で、複数推しや箱推しを肯定的に捉えるプレイヤーも数多く存在している。彼らにとって、異なるキャラクターへの感情移入は「感情の分散」ではなく、「感情体験の拡張」である。プレイヤー同士の交流もまた、それぞれがどのキャラクターに何を感じたのかを共有することで成立している。つまりコミュニティ自体が、「共感と共有」によって形成された感情共同体でもあるのだ。
ムーライ(仮名)は、かつて長く単推しとして活動していたが、現在は複数作品のキャラクターを推している。
「最初は私も単推しでした。でも別のキャラクターの物語にも心を動かされたんです。心の中に部屋が二つあって、お互いに邪魔しない感じです」
彼女にとって、“推し”とは感情の共鳴であって、現実恋愛の代替とは考えていない。むしろそれは、感情が反応し、蓄積し、内面化されていく流動的なプロセスだと捉えている。だからこそ彼女は、「単推しは純粋、複数推しは不誠実」という価値観を、“道徳化された誤読”だと感じている。
「ファンダムを、善悪だけで分ける空間みたいに扱う人が多すぎるんです」
単推し文化そのものを否定しているわけではない。ただ、多様な感情のあり方が共存できるコミュニティであるべきだと考えているのである。そして、最初の問いへ戻る。
なぜ「複数のキャラクターを推すこと」が、一部のプレイヤーには“浮気”のように感じられるのだろうか。その背景には、「恋愛的没入」の投影が存在している。プレイヤーたちは、ゲームへ時間や金銭だけでなく、自分自身の感情そのものを投入している。だからこそ、その感情が“分散”されたように見えた瞬間、そこに不均衡や裏切りの感覚が生まれる。
現実社会で女性へ求められてきた「一途さ」や「忠誠」の価値観も、無意識のうちに影響している。たとえ相手が仮想キャラクターであっても、その文化的感覚は完全には消えていない。
重要なのは、「単推しか複数推しか」という分類そのものではない。本質的には、“推し”との関係は本来もっと流動的で、多層的で、自由なものであると、自分自身で受け入れられるかどうかである。
その関係の中で、自分が癒やされ、理解され、少しでも前向きになれる――その体験こそに意味があるのかもしれない。

乙女ゲームにおける恋愛は表層にすぎない?
多くの乙女ゲームは「恋愛」を描いている。ロマンチックな会話や親密なイベント、心理的な駆け引きによって、主人公と男性キャラクターの物語は恋愛として形作られている。しかし実際には、男性キャラクターは単なる恋人役に留まらず、むしろ継続的かつ安定した「情緒的サポートシステム」としてプレイヤーを支えている。乙女ゲームにおける関係性は寄り添い、慰め、孤独の緩和、不安への応答といった、多層的な感情ケアの構造が含まれている。
さらに男性キャラクターたちは主人公の些細な反応を読み取り、それに応じて態度や言葉を調整する。クール系でも年下系でも、その根底には「相手の感情へ応答しようとする姿勢」が組み込まれている。これは従来型の恋愛構造だけでは説明しきれない。むしろ、感情認識と共感を軸にした情緒的サポートの仕組みに近いのである。

物語の進行も、この構造を裏づけている。乙女ゲームでは激しい対立よりも、日常的な会話や穏やかな交流の積み重ねが重視されることが多い。
男性キャラクターは、主人公の日常へ自然に寄り添い、感情へ耳を傾け、必要な場面で静かに支えてくれる。こうした振る舞いは物語上の恋愛演出というより、「感情的な安心」を提供するサービスに近い。そのため乙女ゲームでは、「恋愛」は入口でしかない。
実際にプレイヤーを支えている中心には、継続的な応答と情緒的な受容が存在しているのである。
中心にある女性への「寄り添い」
乙女ゲームの感情構造において、「寄り添い」は極めて重要な役割を持つ。主人公と男性キャラクターの関係は、日々の会話や小さな交流、共に過ごす時間の積み重ねによって、少しずつ育まれていく。
毎日のログイン時の一言、何気ない会話、サブストーリーの些細な日常描写。そうした細部の積み重ねが、キャラクターの存在感を持続的に強めていく。そしてプレイヤーの感情に常に寄り添ってくれる。高頻度で穏やかな接触を繰り返すことで、「寄り添い」は最も強力な感情接続装置になっているのである。

プレイヤーがゲームへ戻るたび、キャラクターが寄り添うように言葉を交わす。その反復によって、「ここにはいつでも応答してくれる存在がいる」という感覚が形成されていく。
また、乙女ゲームの男性キャラクターは、高い時間感受性を持つことが多い。過去の会話や記念日、小さな感情変化を覚えていることで、「時間を共に積み重ねている」という感覚をプレイヤーへ与える。
「恋と深空」のARモードのように、近年はインタラクション自体もさらに常在化・日常化している。プレイヤーはゲームを開くたび、感情的な再会を経験する。そこに大きなドラマは必要ない。いつもの「寄り添い」が乙女ゲームの感情体験を支える根幹になる。

現実からの解放
東アジアの伝統的な家父長制において、女性は長く「従順さ」「自己犠牲」「家庭責任」を期待される存在として扱われてきた。しかし乙女ゲームは、そうした女性像を前提として設計されていない。むしろ、その役割から一時的に解放されるための空間として機能している。
多くの乙女ゲームにおいて、主人公は家庭や社会への義務を背負わされない。彼女は、自分自身の感情や判断によって自由に行動できる。迷ってもいい。拒絶してもいい。近づいても、離れてもいい。その選択は、基本的に否定されない。この構造によって、プレイヤーは「誰かに従う必要のない世界」を体験することになる。
乙女ゲームでは、選択肢にも明確な“正解”が存在しない場合が多い。プレイヤーの判断そのものが尊重される。「如鳶」では、選択によって大きなペナルティが与えられることは少なく、「恋と深空」のイベントストーリーでも、「間違った選択」を強く否定する構造は取られていない。
こうした設計によって、プレイヤーは「自分の感情や選択には価値がある」という感覚を獲得していく。

乙女ゲームでは、プレイヤーは常に「耳を傾けられる存在」「尊重される存在」として扱われる。迷いや弱さも欠点とは見なされない。プレイヤーは、キャラクターとの交流を通して、自分自身の判断力を繰り返し試していく。
問い詰めるのか、受け入れるのか。距離を取るのか、近づくのか。ゲームは「正解」を押しつけるのではなく、「あなた自身の感情で進んでいい」と促している。その積み重ねによって「自分の意志への信頼感」が生まれ、一種の「自己可能性シミュレーション」として機能している。プレイヤーは乙女ゲームを通して、現実社会では押し込められがちな自分の意志や反応、行動能力そのものを少しずつ発見していくのである。

乙女ゲームは、極めて理想化された男性キャラクターとの関係性を提示している。その特徴は、「リスクの排除」と「感情的満足」の両立にある。プレイヤーは、現実恋愛に伴う複雑な人間関係や消耗を背負わなくてよい。その代わり、男性キャラクターから継続的な関心や寄り添い、理解を受け取ることができる。
その結果、乙女ゲームは非常に価値の高い感情を形成し、自分への理解や安心感、共成長まで満たしてくれる。一部のプレイヤーは、乙女ゲームを経験した後に現実の恋愛に対する許容範囲が狭くなったと感じることもある。
乙女ゲームとは「女性主体」を中心にした構造そのものなのである。その物語は「私」が選ばなければ始まらない。誰を愛するか、どの関係へ進むか、その決定権は常にプレイヤー側にある。
しかし同時に、プレイヤーが「必要とされること」へ深く没入するほど、現実の自己感覚との境界が曖昧になっていく危うさも存在している。彼が愛しているのは、ゲーム内の主人公であって、「現実の私」ではない。それでもプレイヤーは、その感情構造へ強く引き寄せられていく。
おそらく乙女ゲームの魅力は、まさにそこにある。それは、現実社会の中で感情的疲労を抱える女性たちへ、「愛されている」という感覚を与えている。プレイヤーはその中で、初めて「寄り添われる側」になることができる。
現実の孤独そのものが完全に解決することはない。――「私」はそこに存在していない。それでも、「私」はそこから離れることができないのである。
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