中国ゲームメディアUCGによる連載企画第12回は、UCG本誌で掲載されたコラムの翻訳版「ソーシャルゲーム課金モデルの功罪」第3回をお届けする(全4回)。

二次元ソーシャルゲームは、ゲームメーカーとプレイヤーの双方に利益と負担をもたらす、一種の「交換関係」である。ジャンルが長期間維持され、さらに発展してきた事実は、そこに一定の合理性が存在し、全体として均衡が保たれていることを示している。しかし、その均衡は決して完全ではない。むしろ、そこに残された不均衡を見つめることで、このシステムが内包する矛盾や将来的な危機を捉えることができる。
先に結論を述べておきたい。課金モデルを基盤とする二次元ソーシャルゲームにおいて、運営側の優位性を支えている大きな要因の一つが、「サンクコスト」による心理的な拘束である。プレイヤーが費やした時間や金銭は、ゲームを続けるほど蓄積されていく。さらに、キャラクターを獲得しても、その価値を十分に享受するには育成や継続的なプレイが必要となる。この構造が、プレイヤーをゲームから離れにくくしている。
一方で、プレイヤーがこうした負担を受け入れるのは、二次元ソーシャルゲームが他の娯楽では代替しにくい「キャラクター消費」の体験を提供しているからである。特に、キャラクターへの愛着はプレイヤー自身の価値観や自己認識と結び付きやすい。そのため、運営による性能調整やストーリー上の扱いは、単なるサービス上の変更ではなく、自分が大切にしてきたキャラクターや、自分自身の選択を評価されたものとして受け止められることがある。
ここに、二次元ソーシャルゲーム特有の相互拘束が生まれる。運営側は、プレイヤーが積み重ねてきた時間や金銭といったサンクコストによって継続利用を促す。一方、プレイヤー側も自分の価値観やキャラクターへの愛着をもとに、運営へ一定の対応を求める。両者は利益を共有しながらも、同時に互いを拘束する関係にあるのである。
そこでまず注目すべきなのが、プレイヤーが負担するコストである。第11回で述べたように、二次元ソーシャルゲームは「サービスを販売する」という商業構造の中に、「周回と課金の二重路線」という独自の仕組みを組み込んでいる。その中心にあるのが、時間や労力を投入する「仮想労働」である。この仮想労働がどのようにプレイヤーをゲームへつなぎ止めるのかを理解するには、「競速関係」の観点から捉える必要がある。

仮想労働とゲームをめぐる競速関係
まず挙げられるのは、運営側と利用者のあいだに形成される「生産と消費」の競速関係である。この関係において「周回」、すなわち仮想労働は注意経済を維持する手段であると同時に、コンテンツの消費速度を調整する仕組みでもある。
しかも、二次元ソーシャルゲームにおけるこうした労働は、より強い「異化」の性質を帯びている。なぜなら周回や育成の多くはそれ自体を目的とした行為ではなく、「本来のゲーム体験」に到達するための前提条件として設計されているからである。利用者は膨大な時間や労力を自らのアカウントに投入するが、多くの利用規約において認められているのは、あくまでアカウントやゲーム内資産に対する使用権であり所有権ではない。つまり、そこで費やした時間や労力によって生み出された成果を、完全に自分のものとして保持できるわけではない。
マルクスの異化労働論を参照するならば、ここには、労働の成果が自己から切り離されるという点で、いくつかの共通した特徴を見いだすことができる。ゲームを楽しむために行っていたはずの行為が、やがて義務や作業に近づき、その成果もまた利用者自身が完全に所有できるものではない。仮想労働は制度設計の段階から運営側に有利な条件を備えているのである。
さらに、ここには運営企業同士の競争も作用している。ログイン報酬や育成素材を得るための周回、各種イベントやミニゲームはいずれもプレイヤーを維持するための仕組みである。それらは単に消費意欲を刺激するだけではない。競合タイトルとの利用者獲得競争において、自らのゲームにどれだけ長く、どれだけ頻繁に利用者を留められるかという点でも重要な役割を果たしている。
こうした周回システムは、テレビCMが視聴者の注意を引きつけ、最終的に商品購入へと誘導する仕組みに近い。ただし、テレビCMが番組とは別の商品を宣伝するのに対し、二次元ソーシャルゲームにおける周回やイベントは、ゲームの外へ利用者を送り出すのではなく、ゲームそのものに留まらせるために機能している。つまり、そこで行われている販売促進はゲーム内部へ向けられているのであり、いわば「自己言及的広告」と呼ぶことができる。
もちろん、テレビCMにも娯楽性や芸術性が存在しうるように、周回そのものがゲームプレイの一部として受け入れられ、イベントやミニゲームが独立した娯楽として機能することもある。しかし、それが過剰になれば、広告の過剰な挿入が視聴体験を損なうのと同じように、利用者の疲労や倦怠感を招くことになる。
そして、こうした「ゲーム内に利用者を留め続けるための仕組み」が、企業間競争の激化によって増加していくのであれば、その負担の一部は利用者側へ転嫁されているとも解釈できる。運営側にとっては利用時間や継続率を確保するための合理的な施策であっても、利用者にとっては、ゲームを楽しみ続けるためにより多くの時間と注意を支払わなければならないということでもある。ここに、二次元ソーシャルゲームにおける「生産と消費」の競速関係が生み出す、もう一つのコストが存在するのである。

「推し」の価値は誰が決めるのか
利用者が労働を担い、さらに「自己言及的広告」によって時間や注意力を消費したとしても、得られるものはサービスを享受するための「資格」あるいは「権利」にとどまる。
二次元ソーシャルゲームにおけるキャラクターは、「商品」でも「サービス」でもなく、「付加価値サービスを受ける資格」と捉えるほうが適切である。そして、その資格は、対応する仮想労働、すなわち育成を経て初めて実質的な価値を持つ。ここで利用者が直面するのは、「実際に享受できる体験」と「その体験を得るための資格」とのあいだに存在する隔たりである。
前者をお金に例えるなら、後者はすぐに現金化できない株式報酬に近い。キャラクターの育成に時間や資源を投入し、実際のゲーム内で活躍させて初めて、その「資格」は具体的な体験へと変換されるのである。
しかも、キャラクターの獲得や育成に費やした時間、金銭、労力はいったん投入すれば取り戻すことのできないサンクコストとなる。一方で、投資によって得られる将来的な体験の価値は、ゲームの運営方針や環境の変化によって左右される。この「すでに支払ったコスト」と「まだ確定していない将来価値」の組み合わせこそ、買い切り型ゲームでは比較的生じにくい、サービス型ゲーム特有の構造である。
この構造を具体的に考えるため、再び「アークナイツ」のキャラクター育成を例に挙げよう。ガチャ資源や育成素材には限りがあるため、重課金層ではないプレイヤーにとって、特定のキャラクターへ投資するかどうかは慎重な判断を要する。そこでネット情報を参照しながら、そのキャラクターが今後どの程度活躍できるのかを予測しようとする。
しかし、どれだけ情報を集めても、その選択には常に不確実性が残る。サービス型ゲーム全般に存在するインフレの問題を考慮しなくても、「アークナイツ」はギミック性の強いタワーディフェンスであり、ステージ設計における開発側の裁量が大きい。どれほど高い性能や分かりやすい数値的魅力を持つキャラクターであっても、ステージ側の条件を変えることで、その活躍の場を制限することが可能なのである。
キャラクターへの愛着を重視する層にとっても、同じような不安は存在する。二次元ソーシャルゲームにおけるキャラクター消費は、キャラクターを入手した瞬間に完結するものではない。その後のストーリーやイベント、ゲーム内での活躍を通じて、キャラクターの価値が形成されていくからである。
だからこそ、性能や攻略への関心が比較的低い利用者であっても、自分の「推し」がゲームのなかで活躍できないことには強い抵抗を覚える。単なる性能調整以上の問題として、自分が愛着を持ってきた対象そのものの価値を否定されたように感じるからである。そして、最後にはどうにもならなくなった利用者が、肩をすくめるようにこう語るのだ。
「まあ、私はキャラ厨だからね」
この言葉の裏側には、性能でも効率でも説明しきれない、二次元ソーシャルゲーム特有のキャラクター消費の構造が表れている。プレイヤーは課金だけでなく時間や感情を支払うことで、そのキャラクターの価値を形成しているのである。だからこそ、その価値を左右する運営側の判断は、単なるゲームバランス調整を超えて、利用者自身の選択や愛着に対する評価として受け止められ、センシティブな問題となりえる。

「キャラクター消費」から「主体性」へ
以上の分析から明らかなように、二次元ソーシャルゲームにおいて利用者が支払う代償は決して小さくない。投入される金銭や時間、注ぎ込まれる感情、そして将来的な価値が保証されないサンクコストは、一般的な買い切り型ゲームと比べても大きな負担となる。そのため利用者は、自分がゲーム内でどのような権利を持ち、何を得るために何を支払っているのか、より敏感にならざるを得ない。
それでもなお、この交換関係が「おおむね均衡している」と受け入れられている最大の理由は、やはり二次元ソーシャルゲームが提供する「キャラクター消費」の体験にある。プレイヤーは、投入した時間や労力が必ずしも確実な価値として返ってこないことを理解しながらも、それを上回る意味をキャラクターとの関係のなかに見いだしているのである。
ただし、この現象は東浩紀のデータベース消費論だけでは十分に説明できない。二次元ソーシャルゲームにおけるキャラクター消費が「萌え属性」を基盤としていることは確かである。しかし、その魅力は、東が指摘した「直接性」や「フラットさ」だけから生まれているわけではない。むしろ重要なのは、利用者自身がキャラクターを選び、育て、使い続け、その価値を自らの経験によって形成していくという「主体性の体験」が含まれている点である。
言い換えれば、プレイヤーはどのキャラクターを獲得するのか、どのように育成するのか、どの場面で活躍させるのか、そしてそのキャラクターをどのように評価するのか。その一連の選択を通じて、自分自身のゲーム体験を作り上げているのである。ここに、二次元ソーシャルゲームのキャラクター消費が持つ独特の魅力がある。
そして、現代の文化環境全体を見渡したとき、この種の「自分で選び、自分で価値を与える」という体験は、決してありふれたものではない。
中国のSNSである小紅書(RED)などでは、「主体性」という言葉がすでに流行語として定着している。一般には、「自立性」「自己管理能力」「精神的な強さ」といった肯定的な意味で理解されることが多い。しかし、哲学的な文脈における主体性は、自らの意思で選択し行動する自由を意味する一方で、その選択や行動の責任を自ら引き受けなければならないという、負担も同時に含んでいる。
主体性とは、自由を与えると同時に、個人をその自由から逃れにくくする両刃の剣なのである。
では、この主体性の二面性は、二次元ソーシャルゲームにおけるキャラクター消費とどのように結び付いているのだろうか。この性質を明らかにするため、二つの論考を取り上げたい。

主体性を支える「認得」と、縛り付ける「認可」
第一の議論は、若者の生活や思想を長年にわたって観察してきた人類学者・項飆によるものである。彼は近年発表した対談のなかで、「認得」と「認可」という二つの承認モデルの違いについて論じている※。
※項飆・康嵐「承認の二つのモデルについて――『認得』と『認可』」
「当代青年研究」2025年第4期。
この論考は、コジェーヴ的な意味での「承認」概念を出発点としている。ここでいう承認とは、個人が自らの価値を示し、それを他者に受け止めてもらうことを指す。言い換えれば、他者から承認されようとする過程そのものが、個人が主体として形成されていく過程でもある。
そのうえで「認得」とは比較的対等な人間関係のなかで成立する承認であり、異なる価値観や考え方が共存することを前提としている。そこには一定の相互性も存在し、十分な承認を得られていなかったとしても、意味のある出会いや交流を通じて相手を「認得」した瞬間、双方が同時に一人の主体として認められる可能性が生まれる。
一方、「認可」は、より上位にいる者から与えられる「許可」に近い。そこでは単なる理解や評価にとどまらず、時として、その人が存在する価値そのものまで判断されてしまう。「認得されない」ことが、単に自分のことを理解してもらえていない状態だとすれば、「認可されない」ことは、自分が築いてきた価値や主体性そのものを否定されたように感じさせるのである。
第二の論考は、やや自己啓発的な側面も持つ心理学系メディア「Know Yourself」によるものである。同メディアも近年、「主体性」という概念について記事を公開しており、主体性とは単純な「自我の強さ」ではなく、「自分自身との関係」や「世界との関係」を、忍耐強く、責任を持って扱う能力に近いものだと説明している。
特に興味深いのが、「幼児的万能感」は主体性とは正反対のものである、という指摘である。
記事では、次のように説明されている。
「万能感とは人類の最も原初的な心理状態であり、乳児は自分が何かを望めば、世界がその通りに動くと感じている。この心理が十分に発達しなければ、成人後もなお『すべてをコントロールしたい』という幻想に執着することになる。主体性へ向かう過程とは、この幻想を乗り越える過程である。自己境界が明確になるにつれて、人は自分と環境、自分と他者を区別し、自分以外にも独自の法則で動く世界が存在することを理解していく。その世界は、自分の願望や価値観、生活のリズムによって自由に変化するものではない。」
この二つは、互いに補完し合う関係にある。項飆が論じる「認得」と「認可」は、主体が他者との関係のなかでどのように承認されるのかを示している。一方、「幼児的万能感」をめぐる論考は、主体が自分と他者、そして自分と世界との境界をどのように受け入れるのかを示している。
この二つを組み合わせると、主体性とは「自分の望みを世界に認めさせる力」ではないことが分かる。むしろ、自分とは異なる価値観や、自分の意思では動かせない世界の存在を認めたうえで、それでもなお自分自身の選択を引き受ける能力なのである。
項飆はとある対談のなかで、この問題を象徴するような例を紹介している。
「数日前、若者たちとのオンライン座談会をした。その中に、社会人経験を経て博士課程へ進学した女性がいた。彼女は周囲から頻繁に結婚を勧められている。しかし本人には結婚する意思がない。すると母親はこう言った。『ノーベル賞を取ってきたら、結婚を催促するのをやめてあげる。』」
項飆は、この会話のなかに、「認可」を通じて「認得」を得ようとする構造が凝縮されていると見る。
子どもの側からすれば、これは深い傷になりうる。なぜなら、その言葉の背後には、「親からの愛情は無条件ではなく、結婚や家、車、社会的成功といった外部的な基準によって評価される」というメッセージが含まれているからである。その条件を満たせなければ、自分自身の存在まで否定されたように感じてしまう。
もちろん、別の角度から見れば、そのような価値基準を子どもに押しつける親自身もまた、社会からの評価にさらされている。子どもが結婚しているか、家や車を持っているか、社会的に成功しているか。それらによって親自身もまた「認可」されようとしているのである。つまり、この構造は親から子へ一方的に伝達されるのではなく、世代をまたいで連鎖している。
しかし、親が外圧をそのまま子どもへ伝えるとき、そこには「自分自身と向き合うこと」や「自分では変えられない世界との距離を受け入れること」の放棄が含まれている。それは自らの不安や無力感を解消するために、他者を思い通りに動かそうとする「幼児的万能感」への回帰でもある。
この例における結婚への圧力とは、ある意味では「無条件の愛」を求める行為ともいえる。ただし、本来「無条件の愛」は親から子どもに与えられるはずだが、親が子どもに要求しているのだ。
必死になって子どもへ結婚を迫る親の姿は、「お菓子を買ってほしい」と泣きながら駄々をこねる子どもの姿にも重なる。自分の不安や欲求を、自分自身で引き受けるのではなく、他者を変えることで解消しようとしているからである。

乳児が「万能感」を経験できるのは、母親からのほぼ無条件の「認得」が存在するからである。自分の欲求が受け止められ、自分の存在そのものを肯定されるという安定した経験は、その後の人生において、現実と向き合い、自分とは異なる他者を受け入れるための基盤となる。
一方で、思春期以降や成人後に「認可」を得ることばかりが過度に求められると、人はかえって「幼児的万能感」に基づく主体性の幻想へ傾きやすくなる。社会のなかで「認得」と「認可」の均衡が崩れると、人々は「本当は無条件に受け入れられたいのに、それを得ることができない」という矛盾を抱え込む。そして、その満たされない欲求を埋めようとするほど、他者からの評価や認可への依存が強まり、結果として両者の不均衡がさらに拡大していくのである。
なぜキャラクターへの愛着は自分の問題になるのか
ここまで理論的な議論を続けてきたため、読者のなかには「これが二次元ソーシャルゲームとどのようにつながるのか」と感じる人もいるかもしれない。しかし、過去の炎上や論争を振り返ると、そこにはまさにこの心理構造が繰り返し現れていることに気づく。
再び、異格シルバーアッシュの例に戻ろう。
「キャラクター消費」を論じた際、私はシルバーアッシュというキャラクターに対して、少なくとも二種類の読解が存在すると述べた。一つは、キャラクターの外見や属性から直接的なイメージを受け取る、よりフラットな読み方である。もう一つは、背景設定や物語を踏まえ、そこにより深い意味を見いだそうとする読み方だ。しかし、この二つは一見すると異なるようでいて、最終的にはどちらも「主体性の体験」へと結び付いている。
前者の場合、多くはキャラクターとの恋愛幻想を前提としている。たとえ恋愛的な投影を行わないプレイヤーであっても、そこには少なくとも自己投影が存在するだろう。そのときプレイヤーが受け取っているのは、「シルバーアッシュは不平等な契約を結ぶのではなく、あなた自身の価値を認めたうえで、ともに歩む」という感覚である。同時に、「最強クラスのキャラクターを自分が所有している」という、ある種の万能感もそこには含まれている。
後者の読み方は、前者よりも複雑で成熟した解釈と言えるかもしれない。しかし、そこでもプレイヤーはシルバーアッシュが持つ設定・背景を踏まえながら、物語のなかに現実的な共感や、自分自身の立ち位置を探している。つまり、キャラクターを深く読み込む行為もまた、自分自身の価値観や経験を通じて世界を解釈する主体的な行為なのである。
そう考えるなら、両者は方向性こそ異なるものの、本質的には映画「アバター」におけるナヴィの「I see you」や、「原神」における神里綾華の「ちゃんと私を見ていてください」という言葉に通じる、「見る/見られる」「認める/認められる」という関係性の体験に行き着く。
多くのプレイヤーにとって、現実の社会や家庭のなかで「認得」と「認可」の不均衡に直面する機会は少なくない。自分の意思や価値観そのものを受け止めてもらう一方で、社会的な基準によって評価されることを求められる。そのため、自分の存在や価値をそのまま受け止めてもらえるという感覚は、日常生活のなかでは極めて得難いものになっている。
だからこそ、二次元ソーシャルゲームにおける「キャラクター消費」は、単なる娯楽以上の意味を持つ。そこでは、プレイヤーが自分の意思でキャラクターを選び、そのキャラクターとの関係を育て、自分なりの意味を与えることができる。そして、その選択や愛着がゲームのなかで肯定されることで、プレイヤーは「自分の選択が認められている」という感覚を得ることができるのである。
まさにこの希少性こそが、プレイヤーが二次元ソーシャルゲームとメーカーとの交換関係を、全体としてなお「均衡している」と感じる理由の一つである。投入した時間や金銭がサンクコストへと変化することを受け入れ、さらにはその関係によって拘束されることさえ許容するのは、そこから得られる主体性の体験が、それに見合う価値を持つと感じられるからだ。
しかし、ここにはもう一つ重要な問題がある。プレイヤーが「自分の選択や愛着を認めてもらえること」を価値として感じるのであれば、運営側によるキャラクターの扱いは、単なるゲームデザイン上の判断では済まなくなる。キャラクターの性能、物語、設定、さらには運営による発言や対応までもが、「自分が大切にしてきたものを認めているか」という問題として受け止められるからである。
つまり、ここで成立しているのは、単純な「商品と金銭」の交換ではない。プレイヤーは金銭や時間を支払う代わりに、キャラクターを通じて自らの選択や愛着が認められることを求めている。そして運営側もまた、その期待に応え続けることで、プレイヤーがすでに投入した時間や金銭を「これからも意味のあるもの」と感じられる状態を維持しなければならない。
この意味で、二次元ソーシャルゲームにおける運営と利用者の関係は、単純な搾取と被搾取の関係ではない。両者は利益を共有しながら、同時に互いを拘束しているのである。利用者はサンクコストによってゲームから離れにくくなる一方、自らの価値観や愛着によって運営側の選択を拘束する。この相互拘束こそが、二次元ソーシャルゲームを支える交換関係の核心なのである。
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