【中国ゲーム文化を読む by UCG JAPAN】第13回「ソーシャルゲーム課金モデルの功罪」中国ゲーム産業が迎える転換点 その4

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中国ゲームメディアUCGによる連載企画第13回は、UCG本誌で掲載されたコラムの翻訳版「ソーシャルゲーム課金モデルの功罪」第4回をお届けする(全4回)。

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二次元ソーシャルゲームを通じてプレイヤーがキャラクターを育て、そのキャラクターを通じて「自分が認められている」と感じるのであれば、その関係は当然、現実社会ともつながってくる。私たちは日常生活のなかでも、自分の価値観や選択を他者に認めてもらえることを求めているからである。

そして、この「認められること」をめぐる欲望は、二次元ソーシャルゲームにおいて、ときに強い不安や対立を生み出す。ここからは、異格シルバーアッシュ騒動をはじめとする過去の論争を手がかりに、二次元ソーシャルゲームの構造そのものへ視点を戻してみたい。

ファンタジー世界を描いたゲームであっても、現実社会からの圧力を完全に切り離すことはできない。ゲームのなかで得られる体験にも、現実社会に存在する不安や価値観、そして人間関係の構造が入り込んでくるからである。
二次元ソーシャルゲームをめぐる議論を追ってきたプレイヤーなら、こうした構造に思い当たるところがあるだろう。異格シルバーアッシュ騒動だけではない。「国乙法」※や「麻辣仙人」※といった、中国のネット上で激しい対立を生んだ論争にも、共通する心理構造が見られる。

※「国乙法」:中国乙女ゲームのプレイヤーコミュニティ間で形成された「暗黙のルールや独自の厳格な基準」を指すネットスラング
※「麻辣仙人」:過激な「Master Love」至上主義を掲げ、他者を激しく攻撃するユーザーを指すネットスラング

特に、キャラクターを直接的かつフラットに受け入れているプレイヤーほど、ゲーム内の幻想と現実との落差に強い不安や焦りを感じやすい。そのため、不満を表明するときにも、強い否定感情が表れやすくなる。そして、その言葉の背後には、「自分の思い通りになってほしい」という「幼児的万能感」への回帰を求める欲望が潜んでいるのである。

ここで重要なのは、二次元ソーシャルゲームのビジネスモデルそのものが、前述した「認得」と「認可」という二つの主体性を、同じように支えているわけではないという点である。

メーカーとプレイヤーのあいだには、生産と消費の競争が存在する。そのなかでメーカーはゲームの仕様やキャラクター、物語を決定する権限を持つ。一方で、ゲーム性を維持するためのプレイ時間や金銭といったコストの一部は、プレイヤーが背負うことになる。

この構造が生み出すのは、「あなた自身の価値を認める」という「認得」よりも、「価値を証明し続けなければ、その場所を失う」という「認可」に近い関係である。

たとえば、好きなキャラクターを育て、そのキャラクターを使い続けることには「自分の選択には価値がある」という感覚が伴う。しかし、ゲームの環境が変化し、そのキャラクターが使いにくくなれば、その価値は簡単に揺らいでしまう。プレイヤーは、自分が積み重ねてきたものまで否定されたように感じるのである。

もちろん、シナリオ考察や高難度攻略、二次創作などのコミュニティに深く関わるプレイヤーであれば、他者との交流を通じて、より多くの「認得」を経験できるかもしれない。自分とは異なる価値観を持つ人と意見を交わしながら、自分の好きなものや考え方を受け止めてもらう。こうしたコミュニティでの体験は、ゲーム内で生じる不安を和らげ、個々の論争を相対化する助けにもなる。

しかし、そのプレイヤーがゲームの外から作品を眺めているだけでなく、キャラクターを育成し、時間や金銭を投入している限り、最終的にゲームの「システム」との交換関係から逃れることはできない。そして、そのシステムを設計し、変更する権限は、基本的にメーカーが握っている。

もしメーカーがゲームのインフレによって、プレイヤーが好きだったキャラクターを簡単に編成リストから外すことができるとしたら。もしシナリオによって、長く愛着を抱いてきたキャラクターを、自分には受け入れられない人物へと変えることができるとしたら。

そのとき、プレイヤーはこう考えてしまうかもしれない。
「これまで、このキャラクターに注いできた時間や感情は、一体何だったのか」と。

さらに、この問題を複雑にするのが、他のプレイヤーの存在である。
自分自身がこうした不安から距離を置けていたとしても、別のプレイヤーが強い不安を抱き、ネット上で運営に対して強いメッセージを表明したとしよう。そのとき、その要求は決して「自分には関係のない他人の問題」として切り離せるとは限らない。

「その声に加わらなければ、自分の存在も見てもらえなくなるのではないか」
「自分が大切にしているものも、いつか別の誰かに取って代わられるのではないか」

こうした不安が、プレイヤー同士のあいだで共有されていくのである。

異格シルバーアッシュ騒動が、単なる一部ファンから運営への要求にとどまらず、広範な議論と感情的な反応を引き起こしたのも、この不安がコミュニティ全体へ波及したからだと考えられる。

もちろん、メーカー側に十分な制作能力があり、プレイヤーそれぞれの価値観や要求に細やかに対応できるのであれば、こうした問題をある程度和らげることはできるだろう。

しかし、ここで忘れてはならないのが、二次元ソーシャルゲームのビジネスモデルそのものが、「生産と消費の競速関係」のなかでメーカー側に有利な構造を持っているという事実である。
メーカーは、体験を提供することで経済的な利益を得る。

その一方で、プレイヤーは自分の価値観やキャラクターへの愛着を根拠として、メーカーに「こうしてほしい」「これは変えないでほしい」と要求する。

そしてメーカーは、プレイヤーがすでに投入した時間や金銭、いわゆるサンクコストによって、プレイヤーをゲームにつなぎ止める。

つまり、メーカーがプレイヤーを拘束するだけではない。プレイヤーもまた、自分がゲームに抱いている価値や愛着によって、メーカーを拘束しているのである。

だからこそ、「双方に利益をもたらしながら、互いを縛り合う」という関係が構造的に生まれる。これが、二次元ソーシャルゲームという仕組みが生み出す、独特の交換関係である。そして、ここには一つの大きな矛盾がある。

メーカーが運営するゲームシステムは、一つのルール、一つの方向性に基づいて動かなければならない。しかし、そこに参加するプレイヤーは一人ひとり異なる価値観や好みを持ち、それぞれが異なる「主体性の体験」を求めている。

つまり、「一つのシステム」と「多様なプレイヤー」のあいだには、構造的なズレが存在するのである。

このズレを完全になくすことはできない。どれほど丁寧に運営しても、すべてのプレイヤーが納得することはない。極端な要求を持つプレイヤーがいなくなることもなく、その背後にある不安も、他者へ伝わり続ける可能性がある。

だからこそ、この問題は運営方法やコミュニケーションだけで解決できるものではない。

運営が強い方針を示せば、「プレイヤーの声を聞かない傲慢な運営だ」と批判されるかもしれない。一方で、プレイヤーの要求に過度に合わせれば、それまで存在しなかった新たな要求や対立を生み出す可能性もある。

まさにここに、二次元ソーシャルゲームというビジネスモデルが内包する、根本的な構造矛盾が存在しているのである。

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中国ゲーム産業の過去と未来

二次元ソーシャルゲームが課金モデルの典型例であるならば、ここまで見てきた構造的な矛盾だけでなく、そもそもなぜこのようなビジネスモデルが形成されたのか、その背景にも目を向ける必要がある。
中国ゲーム産業が、現在のような二次元ソーシャルゲームを中心とする市場へ発展した背景には、業界内部の判断だけでは説明できない、さまざまな社会的・歴史的要因が存在している。そして、それらの環境が変化すれば、中国ゲーム産業のあり方もまた変わっていくことになる。
ここでは最後に視点をさらに広げ、中国ゲーム産業がこれまで歩んできた道のりを振り返りながら、その変化を生み出してきた社会的背景と、これからの未来について考えてみたい。

1993年の米国上院におけるビデオゲーム暴力公聴会の様子。
1993年の米国上院におけるビデオゲーム暴力公聴会の様子。

中国ゲーム産業を語るうえで、規制との関係は避けて通れない。これは日本や欧米のゲーム産業にも共通する問題であり、公的な批判や規制は、ときに産業そのものの発展方向を変化させてきた。
課金モデルを擁護する議論では、しばしばこうした歴史的背景が持ち出される。規制環境や市場条件によって、現在のビジネスモデルが形成されたという説明である。それ自体には一定の妥当性がある。だが、ここで注目したいのは、過去にどのような選択がなされたかということだけではない。

より重要なのは、ビデオゲームという大衆文化商品が、その時代の社会的・文化的な心理とどのように結びつきながら発展してきたのかという点である。ゲームは単なる娯楽ではなく、社会全体の価値観や消費のあり方と共鳴しながら、その姿を変えてきた。二次元ソーシャルゲームの成功もまた、こうした時代的条件のなかで捉える必要がある。
2008年の金融危機以降の世界経済の変化、そしてショート動画に代表される「注意経済」の拡大を背景に見ると、課金モデルの発展は現代の消費社会がたどってきた変化とも強く同期していることが分かる。

注意経済とは、人々の限られたアテンション(注意・注目・関心)を獲得し、それを消費行動へと転換する仕組みである。二次元ソーシャルゲームにおけるデイリー任務や期間限定イベントも、その一形態と捉えることができる。これらはプレイヤーとゲームの接触頻度を高め、継続的な利用を促すことで、新たな消費機会を生み出している。
そして、このモデルが広がった背景には、現代社会における時間感覚の変化も関係しているだろう。競争が激しくなり、余暇の限られた時間のなかで満足を得られる消費形態が求められやすい。二次元ソーシャルゲームは、こうした社会の変化に適応するかたちで、短時間でも達成感を得られる設計、日常の隙間時間に入り込む仕組みを発達させてきたのである。

「アークナイツ」のタスク通知も、プレイヤーの注意を占有する仕組みの一つである。
「アークナイツ」のタスク通知も、プレイヤーの注意を占有する仕組みの一つである。

ビデオゲームは本来、一定の時間と精神的な余裕を必要とするメディアでもある。ゲームのルールを理解し、失敗を受け入れ、複雑なシステムを学習していくためには、相応の集中力が求められるからだ。

二次元ソーシャルゲームは、大作ゲームと比べれば参入に対する心理的なハードルが低い。しかし、それは精神的な余裕を消費しないという意味ではない。長時間のショート動画視聴が、必ずしも休息ではなく注意力の消耗につながるように、ゲームもまたプレイヤーの精神的な余力を消費する。

その結果、集中力をそれほど必要としないゲーム体験に依存するほど、より深いゲーム体験に向き合うための余力が失われ、さらに短時間で消費できるゲームへと傾いていく可能性がある。個々のメーカーにとって見れば、これはユーザーを維持するための有効な仕組みである。しかし、産業全体で見た場合には、プレイヤーがゲームに費やせる時間や精神的余力そのものを縮小させ、長期的には市場の可能性を狭める危険性も孕んでいる。

そして、もう一つ見過ごせない変化として、「欲望する能力」の弱体化も挙げられる。これは二次元ソーシャルゲームだけの問題ではなく、現代の大衆文化全体に関わる現象である。

前回述べたように、現代社会では、自らの価値を認められる経験、すなわち主体性を実感する機会が希少になっている。そのため、多くの大衆文化は、フィクションを通じて主体性を獲得する体験を提供してきた。自分で何かを選び、その選択によって世界や物語が変化する。あるいは、自分が何かを好きだと認識し、その「好き」という感情そのものに価値を見いだす。こうした体験は、現実社会では得にくい主体性を補完する役割を果たしてきたのである。

だが、その幻想もまた、現実社会の構造から完全に自由ではない。二次元ソーシャルゲームをめぐるさまざまな論争を見ていると、そこにはしばしば「認められたい」という欲求と、「認められなければ自分の存在価値まで否定されてしまう」という不安が同時に現れている。

その結果、本来であれば楽しみや解釈の余地を持つはずの文化体験が、いつの間にか「正しさ」を争う場へと変化してしまうことがある。作品の一部分だけを切り取り、そこに道徳的な判断を下そうとする風潮は、すでにSNS上で一般化している。この傾向は二次元ソーシャルゲームに限らず、買い切り型ゲームにも広がっている。発売直後から作品への批判や論争がネット上で急速に拡散し、それ自体が作品を評価する大きな流れへと発展する事例も、もはや珍しくない。

もちろん、これはゲーム業界だけの問題ではなく、SNS文化そのものが持つ特徴でもある。誰もが意見を発信でき、他者の反応を瞬時に受け取れる環境では、「何が正しいのか」をめぐる競争もまた加速していく。

現実社会においてゲームへの偏見が薄れ、ゲームが大衆文化として広く受け入れられるようになった一方で、今度はプレイヤー自身がゲーム作品を厳しく評価し、ときには排除しようとする構造が生まれている。ゲームを社会から守る必要がなくなったと思った矢先に、プレイヤー同士、あるいはプレイヤーと作品とのあいだで新たな「正しさ」の競争が始まっているのだとすれば、これはなんとも皮肉な現象と言えるだろう。

「明末:ウツロノハネ」発売後にSNS上で発生した論争は、中国ゲームが向き合うべき課題を示している。 ※漢民族の王朝である明の将軍や漢民族の指導者たちを敵キャラクターとして登場させたこと、明を滅ぼした清の勢力が登場しないことが「歴史認識」の問題として論争となった。
「明末:ウツロノハネ」発売後にSNS上で発生した論争は、中国ゲームが向き合うべき課題を示している。
※漢民族の王朝である明の将軍や漢民族の指導者たちを敵キャラクターとして登場させたこと、明を滅ぼした清の勢力が登場しないことが「歴史認識」の問題として論争となった。

以上のような問題は、二次元ソーシャルゲームと無関係ではない。むしろ、このジャンルのビジネスモデルは、こうした傾向をさらに強化している可能性がある。だが、ここで忘れてはならないのは、物事には常に両面があるということだ。

二次元ソーシャルゲームが抱える「生産能力と需要の矛盾」は、同時に新たな可能性も生み出してきた。大量のコンテンツを継続的に提供する必要があるからこそ、メーカーは複数の開発ラインを運用し、ミニゲームやサブコンテンツ、異なるジャンルの融合など、さまざまな試みに挑戦するようになったのである。
それが産業構造として健全なものかどうかは別の問題である。しかし、ゲームデザインの発展という観点から見れば、二次元ソーシャルゲームは巨大な実験場となっている。現在、一部の作品には、従来のソーシャルゲームという枠組みだけでは捉えきれない、独創的なゲームデザインが生まれている。

さらに注目すべきなのが、世界観構築の面である。
近年の中国ゲームには、極めて複雑かつ広大な世界設定を持つ作品が登場している。それはゲーム産業という枠を超え、現代の大衆娯楽文化のなかでも注目に値する現象である。その背景には、キャラクター消費、ゲームというメディアの特性、世界市場への進出意識、そして中国社会自身が持つ歴史認識など、複数の要素が複雑に関係しているのだろう。

「アークナイツ」におけるイェラグとウルサス、「原神」におけるフォンテーヌやナタ、「崩壊:スターレイル」におけるピノコニーの歴史背景などは、その代表的な例と言える。
ここで重要なのは、単純な「文化輸出」を目指すことではない。自分たち自身の視点を軸に世界を描き、その結果として、異なる文化圏の人々とも共有できる物語を生み出すこと。その積み重ねこそが、より本質的な文化的影響力につながっていくのではないだろうか。

もしここまでの分析が正しいのであれば、課金モデルには確かに時代的な限界と構造的な矛盾が存在する。そして長期的に見れば、中国ゲーム産業が現在のモデルから変化していくことは避けられないだろう。

しかし、その変化は単なる否定や放棄であってはならない。これまでの課金モデルが生み出してきた成果を引き継ぎながら、その限界を乗り越えていく「アウフヘーベン」であるべきだ。

課金モデルが生み出した豊かなキャラクター表現、複雑な世界構築、そしてゲームデザイン上のさまざまな実験は、決して失われるべきものではない。それらを次のゲーム体験へと引き継ぎ、新たな価値へと変えていくことが重要なのである。

もし、本当の意味での主体性の獲得体験が、他者と対等に認め合う「認得」の関係から生まれるのだとすれば、これからの中国ゲーム作品には、プレイヤーが単に消費するだけではなく、自らの選択や価値観を肯定できるような体験を、より多くの人々に届ける役割を期待したい。

それこそが、これまでの課金モデルを乗り越えながら、その成果を未来へとつないでいく、中国ゲーム産業の次の可能性なのではないだろうか。

UCG JAPANは、創刊28年を迎える中国のゲームメディアUCG Mediaの日本における活動拠点です。中国本土ではゲーム雑誌「ゲーム機実用技術」の出版をはじめ、WEBやオフラインイベントなど多様なプロモーションチャネルでゲーム情報を発信しています。この連載では、日本の皆さんに現在の中国におけるゲーム文化をお伝えしていきます。 中国のゲーム最新情報を届ける「みーしゃゲームズ」をX・TikTokで運用中。ぜひフォロ―してね☆

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